幕臣、海軍副総裁、蝦夷総裁 |
天保7年8月25日、江戸下谷御徒町の直参旗本の家に生まれる。通称釜次郎。 |
父の円兵衛は将軍側近で天文方出仕の任につき、日本地図の作成で知られる伊能忠敬に |
も師事した知識人であった。武揚も若くして学才に目覚め、当時幕府の最高学府である昌平 |
黌で儒学を学び、韮山反射炉を作った江川太郎左衛門からオランダ語、米国に永年住んだ |
土佐出身の中浜万次郎から英語を学ぶという恵まれた英才教育を受けて育ち、洋学の素養 |
を身につけた。後年、幕府の開設した長崎海軍伝習所では、造船、測量、航法、機関等、 |
西洋式海軍に必須の新しい学問を得て、27歳の時に幕府留学生としてオランダに留学。現 |
地でも、機械、化学、地質などを研究し、モールス信号の技術までも習得した。若くして |
吸収した数々の学問をを蓄え、新時代の日本人の素質を養いつつあったのである。 |
慶応3年、幕府がオランダに発注していた新造艦開陽丸に乗って5年ぶりに帰国し留学仲 |
間である林研海の妹たつと結婚するが、新婚生活を満喫する暇もなく、武揚不在の間に日 |
本は激動していた。幕府海軍の軍艦奉行に任じられた半年後には大政奉還で将軍が辞職、 |
戊辰戦争が始まっている。鳥羽伏見の戦いで幕府が惨敗し、前将軍慶喜は会津、桑名の両 |
藩主ら僅かな随行を伴ってひそかに大坂城を脱出し、天保山沖に碇泊していた開陽丸に逃 |
げ込んだ。武揚は大坂城の公金十八万両を富士山丸に積み、慶喜を江戸まで送り届ける。 |
陸戦では薩長率いる西軍の新式銃砲の前に敗れはしたが、海軍力では最新艦開陽丸を始め |
とする幕府のほうが圧倒的に優れており、いわゆる「榎本艦隊」ある限り、やすやすと敵 |
の力には屈さず、という威圧感が幕府方にはあったのである。京坂より引き揚げ後の江戸 |
城内では主戦、非戦の論が話されたが、依然徳川家の主君である慶喜が恭順、開城に意を |
固め、「海軍艦隊と陸戦部隊の連携によれば正義の戦に勝てるはず」とまで主張した小栗 |
上野介が退けられて勝海舟が幕府の采配をふるう事になったが、勝の構想の中、榎本率い |
る海軍力は、官軍との交渉に対する有利な武力的背景として厳然とその姿を海上に浮かべ |
ていた。 |
江戸開城後、陸軍奉行大鳥圭介は、新選組土方歳三以下二千の兵と北をめざし転戦する。 |
榎本艦隊は前出の通り、慶喜や旧幕臣の処遇が決定するまでは関東を離れるわけにいかず、 |
数ヶ月遅れることになるが、新政府への軍艦引き渡しは拒み、開陽、回天、蟠竜、千代田 |
形の四艦を率いて新天地を求め蝦夷地へ向った。仙台で合流した海陸軍両者は蝦夷鷲ノ木 |
を目指し上陸。これを受け入れず抗戦する守備の新政府軍を破り大鳥、土方らがまず箱館 |
を占拠し、海からは武揚が入港し、我が国初の西洋城塞である五稜郭を本営として松前攻 |
略にかかった。松前城は激戦の末土方が制圧、武揚は江差沖から鴎島に上陸した。しかし |
直後、風浪により開陽丸が座礁沈没という不運な事故が起き、旗艦を失った事の重大さは |
武揚に最も打撃を与えた事であろう。 |
周囲の平定を終えると、厳寒期でもある蝦夷地には新政府の再度襲来を待つ間に蝦夷共和 |
国が樹立し、武揚は初の選挙制ともいうべき入れ札により総裁となる。が、大坂城から運 |
び出していた金もすでに使い果たし、兵には給料も払えない状態であった。春を待つ間に |
諸外国は内戦局外中立の方針を捨て旧幕府が発注していた米国軍艦「ストーンウォール |
(甲鉄艦)」が新政府の手に渡る。共和国軍ではこれを再戦前に奪取しようとするが失敗。 |
明治2年黒田清隆を参謀とする官軍が箱館を総攻撃し、土方歳三ら歴戦の将も戦死。敗色 |
極まった事を悟った武揚は、自責に駆られ自刃しようとして、とっさに押しとどめた側近 |
が負傷し、気を取り直したという逸話が残っている。 |
5月18日、ついに武揚指揮する共和国軍は降伏。武揚は入獄するが、死刑になることはな |
く、その人物や新知識を惜しむ黒田、西郷隆盛、福沢諭吉らの助命運動により2年半で釈 |
放された。その後程なく北海道開拓使四等出仕を命じられる。明治7年海軍中将兼特命全 |
権ロシア大使、続いて、外務大輔、海軍卿、清国大使、逓信、農商務、文部、外務各大臣 |
を歴任し子爵の位まで授けられた。さらに炭坑、油田の発見開発、国際条約の改正、シベ |
リア調査、など、あらゆる業績を残し、明治41年7月に病に伏し、10月26日に没した。 |
The music produced byDR(零式)さん