(京都市中京区河原町三条東入ル北) |
|
元治元年六月五日に勃発した、池田屋事変の舞台になった旅宿。現、池田ビル。正面 |
|
左手に「維新史跡池田屋騒動之址」の石碑が建つ。主人惣兵衛は捕縛され、後に獄中 |
|
で病死。旅宿の家具や器物は全て没収、さらに七ヶ月の営業停止を命じられたため、 |
|
廃業。三条大橋から高瀬川にかかる三条小橋を渡った、北側の七軒目にあった。二階 |
|
建てで、間口は約七メートル、奥行きは約三十メートル、建坪は約三百平方メートル |
|
だったと言われている。一階に四部屋、二階には七部屋の客室があり、人数により襖 |
|
を取り払って使用した。事変当夜、桂小五郎が同志の集合を待っていたという対馬藩 |
|
別邸はすぐ裏手で、高瀬川沿いの木屋町通りを五十メートルほど上がった西にあり、 |
|
その向かい側に土方歳三らが捜索したという四国屋がある。また、河原町通りを二百 |
|
メートルほど上がった現、京都ホテルに長州藩邸があった。 |
|
|
|
(元治元・六・五) |
|
元治元年六月一日、宮部鼎蔵の下僕忠蔵が、宮部の使いで南禅寺塔頭天授庵 |
|
に在った肥後藩宿陣へ行く途中を、かねてより目を付けていた新選組隊士が |
|
取り押さえた。忠蔵は宮部の行方などの口を割らなかったため、南禅寺の山 |
|
門楼上に生きさらしにされた。これを知った、当時、西木屋町四条上ル桝屋 |
|
喜右衛門方に潜伏していた宮部は、松田重助、吉田稔麿らと三条縄手の小川 |
|
亭へ移った。この小川亭の女将ていが南禅寺に駆けつけ、監視の新選組隊士 |
|
に金を握らせ、忠蔵を解き放させるが、新選組はこれは予定の行動で、忠蔵 |
|
を密偵に尾行させ、桝屋に入るのをつきとめる。そして六月五日早朝、桝屋 |
|
へ、武田観柳斎を出動隊長に他七名で急襲し、桝屋喜右衛門を屯所に連行し |
|
た。桝屋の押収品は、具足十一両。槍二十五筋、木砲五挺、弓十一張、矢五 |
|
百筋と火薬で、後には四条千本の別宅からつづら六杯分の大筒の弾、川船六 |
|
杯分の鉄砲、大筒も見つけられている。喜右衛門は前川邸土蔵で縄につるさ |
|
れての拷問にも、自らの名を「古高俊太郎」と答えただけで、口を閉ざして |
|
いた。土方が取り調べに加わり、足の甲に五寸釘が打たれそこにろうそくの |
|
ロウを流しこまれ、流石の古高も「風の強い日を選んで御所風上に火を付 |
|
け、混乱に乗じて帝を連れ出す。」「守護職を暗殺し、新選組屯所を急襲し |
|
壊滅させる。」という陰謀を白状したと言われる。日程などはまだ定かでは |
|
ないが、祇園祭に乗じて事を起こすのは必定。陰謀が実行されれば、京は火 |
|
の海と化し多くの犠牲が出る。新選組は一刻も早くこの計画を阻止するため |
|
に、京に潜伏する志士を片っ端から取り押さえることにした。近藤は直ちに |
|
守護職、所司代、奉行所に連絡し指示を待ったが、合流予定の五ツ(午後八 |
|
時) を過ぎても現れず、志士たちを逃すのを恐れた新選組は、祇園会所に待 |
|
機させた隊士三十四名を、近藤隊、土方隊の二手に分け、三条から四条にか |
|
けての旅篭を虱潰しに調べてまわった。一方、古高捕縛を知った志士たちは |
|
陰謀の決行と古高救出の話のために、料亭などよりも会合が目に付きにくい |
|
と思われる旅篭に集まっていた。四ツ時、近藤隊が偶然にもこの志士たちが |
|
集まっていた旅篭、三条小橋西の池田屋に行きあたった。近藤が「御用改め |
|
である」と中にはいると、池田屋惣兵衛が慌てて二階の志士に声をかけるが、 |
|
近藤に殴り倒され、者声に様子を見に来た北添佶麿が階段で近藤と出くわし、 |
|
切り伏せられた。近藤は沖田を連れて二階へ駆け上がり、階下は永倉が台所 |
|
から表口、藤堂が庭先を固め、残りの隊士が戸口を囲う。半刻ほどの後、聞 |
|
きつけた土方隊が到着し、斬るのを捕縛に切り替え戦う。この間、会津、桑 |
|
名、一橋、彦根、加賀各藩兵は、遠巻きに固め、逃げ出した志士を取り押さ |
|
えたに過ぎなかった。池田屋事変での討ち死には志士側は、宮部鼎蔵、吉田 |
|
稔麿、北添佶麿、大高又次郎ら、新選組は。奥沢栄助が即死、安藤早太郎、 |
|
新田革左衛門が重傷を負い、後に亡くなっている。池田屋事変により、京都 |
|
市民の安全は守られ、京の治安は一時的に回復した。そして、本来の武士の |
|
名誉が取り戻されたのであった。 |
|
|
|
|
|
事変当日の新選組隊士の服装を詳述した同時代の史料は伝わっておらず、 |
|
それを推測するものとしては、元彦根藩士の某が明治三十五年一月十三日 |
|
に池田屋殉難志士の西川耕蔵の一族の太治郎に送った書状がある。 |
|
それには、事変翌日の元治元年六月六日、混乱状態の残る祇園近辺から、 |
|
市中巡邏を行い、真葛原(知恩院付近から八坂神社付近周辺の地域)の茶 |
|
店で休息をとった隊士たちの目撃記録が残されている。隊士たちは割羽織に |
|
義経袴と称する小袴を着用し、白木綿の後ろ鉢巻き姿で、抜き身の槍を所持 |
|
同書簡は、前夜、池田屋に出動した時も、この姿だったと記録。また八木為 |
|
三郎は、隊服のだんだら羽織を着たのは指揮官数名のみだったと回想した。 |
|
ここには記録はないが、さらに事変当夜の死傷隊士が数名にすぎなかった事 |
|
からも、隊士たちは、かなり頑丈な防具を着用していたものと思われ八木為三 |
|
郎は単衣の下に竹胴を着用して、当日屯所を出て行った隊士を目撃している。 |
|
|
|
|
|
元治元年八月四日、池田屋事変での働きに対して幕府は新選組に五百両の |
|
恩賞金と百両の薬種料、計六百両の報奨金を与えている。 |
|
彼らはこれをその働きによって分配した。 |
|
金十両 別段金二十両 近藤勇 |
|
金十両 別段金十三両 土方歳三 |
|
金十両充 別段金十両充 沖田総司 永倉新八 藤堂平助 谷万太郎 |
|
浅野藤太郎、武田観柳斎。 |
|
金十両充 別段金七両充 井上源三郎 原田左之助 斎藤一 笹塚峯三 |
|
林信太郎 島田魁 川島勝司 葛山武八郎 谷三十郎 三品仲司 蟻通勘吾 |
|
金十両充 別段金五両充 松原忠司 伊木八郎 中村金吾 尾関弥四郎 |
|
宿院良蔵 佐々木蔵之允 河合耆三郎 坂井兵庫 木内峯太 松本喜次郎 |
|
竹内元太郎 近藤周平。 |
|
金十両充 別段金十両充 三人え |
|
一律に支給された十両が事変参加手当、別段金に違いがあるのは当日の働きの |
|
差つまり、近藤率いる第一次斬り込み隊、土方隊での屋内隊と屋外隊という持ち |
|
場によって区別されたものと考えられる。なお、末尾の三人は、池田屋で即死した |
|
奥沢栄助と、受傷後、死亡した新田革左衛門と安藤早太郎を指す。また近藤には |
|
別途、三善長道作の新刀一振りと酒樽が授けられた。 |
|
|
|