佐久間象山 |
さくま しょうざん |
文化8年2月28日、信州松代藩士佐久間国善(一学)の長男として生まれる。幼名啓之助、
後に啓(ひらき)。通称修理、号を象山と称す。神童の誉れ高く、3歳で松源寺の石碑を暗
誦、6歳で四書を熟知していたと言われる。その利発さを藩主真田幸貫に認められ、家老
鎌原桐山から経学を学び朱子学に優れ、町田源左衛門からは和算を学ぶ。18歳で家督を継
ぎ、21歳で藩主の子幸良の近習を命じられるが固辞し、天保4年、江戸遊学を許されて佐
藤一斎に師事、詩文を学ぶ。この頃梁川星巌、渡部崋山、松崎慊堂、藤田東湖らと交友を
結ぶ。天保7年始め一旦帰藩したが、10年江戸に再遊し、神田お玉ケ池に象山書院という
私塾を開く。そこで高野長英、大沼枕山、大槻磐渓らと交流し国事を論じた。象山自身は
御城付月並講釈助、江戸藩邸学問所頭取などを歴任、藩主が老中海防掛となると、その顧
問として海外事情の研究に専心する。天保13年11月、藩主に「海防八策」という上書を提
出した。蘭船の購入、大船、大砲の充実を主張し、西洋式火器の大量製造と海軍の設置育
成を説く挙国体制策で、当時では先見性のある卓見であったが、現実化する力が幕府にも
朝廷にもなかった。蘭学、洋学に関心を深めた象山はその9月に西洋砲術を学ぶため江川
担庵(太郎左衛門)、下曽根金三郎に師事していたが自ら原書を読む必要性を痛感し、弘化
元年、黒川良安にオランダ語と漢学の交換教授を行いつつ、嘉永2年「ドゥーフ=ハルマ」
の改訂出版を企てるが、幕府の許可が下りず中断した。江戸木挽町に塾を開き砲術を教え、
門人帳には勝海舟、吉田松陰、河井継之助、小林虎三郎、加藤弘之らの名がある。また、
村上英俊と共に「フランス語事始め」にも立ち会った。嘉永6年42歳の折には、門人の一
人である勝の妹順と再婚、妻妾同居の風変わりな生活だったとも伝えられる。西洋を中心
とする東アジア情勢の変化の中、アヘン戦争によって非常な衝撃を受けていた象山は、そ
の本質を西洋列強によるアジア侵略と鋭く見抜いて危機意識を抱いており、ぺリー来航の
時には老中阿部正弘に宛てた「急務十条」として西洋事情探索と国力充実の必要を強調し
たが、翌安政元年4月、門下の吉田松陰の密航失敗によりその手助けをしたとして連座、
幕府に捕らえられ、9月に松代で蟄居するように命じられた。9年間の蟄居中も著作し、
「東洋道徳、西洋芸術(=技術)」を掲げ、東洋が西洋の侵略を防ぐには西洋の先進技術
を取り入れる必要があると説き、知己との情報交換を怠らなかった。文久2年9月に漸く
赦免され、元治元年3月には幕府の徴命を受けて上洛、海陸御備向手付御雇、四十人扶持
十五両となる。京都では公武合体論と開国、遷都、御遷座説に立脚し、将軍後見職の一橋
慶喜の意を体して中川宮、山階宮ら皇族、公卿の間を奔走したが、尊攘派の憤激の的とな
り、7月11日、自らが書いた開港の勅許草案を持ち山階宮邸に伺候後、本覚寺へ周り帰宅
しようとしたところを三条木屋町筋で洋鞍の馬上、肥後の河上彦斎らに惨殺された。享年
54歳。和漢洋の学問に習熟した上で世界情勢を憂え、先覚的に突き詰めた意見を唱える象
山は、まだ大局を認識し得ない「攘夷」論の一般人から見れば「洋夷かぶれ」の開国論者
と見られ、遷都論迄に至っては到底理解を得られなかったのであろう。人からは倣岸不屈、
尊大に見られ、後年勝海舟には「ホラ吹き」と評された象山には敵も多く、暗殺後は同情
も少なかった。実子三浦啓之助が勝海舟のつてで京都新選組に協力を求めて仇討ちを志し
入隊したが、息子の方は不出来だったらしく、目的を果たせず脱退しており、佐久間家は
断絶となる。
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