平隊士 |
慶応四年三月の五兵衛新田駐屯以降の入隊で、八月の母成峠で敗れて、斎藤一ら |
と會津に残留したが、九月五日に、如来堂守備中を襲撃され、戦死したものとされる。 |
新選組慰霊碑に名を刻んでいる。 |
平隊士 |
慶応四年三月の五兵衛新田駐屯以降の入隊で、六月に猪苗代 |
湖南の三代で、作成された名簿に、歩兵小頭役と記録される。 |
平隊士 |
慶応四年三月の五兵衛新田駐屯以降の入隊で、六月に猪苗代湖南の三代で、作成された |
名簿に、歩兵小頭役と記録される。八月の母成峠の戦いを経て、仙台で降伏したことが |
「徳川旧藩無宿人浪士」に記される。 |
平隊士 |
慶応四年三月の五兵衛新田駐屯以降の入隊で、六月に猪苗代 |
湖南の三代で、作成された名簿に歩兵小頭役と記録される。 |
平隊士 |
慶応四年三月の五兵衛新田駐屯以降の入隊で、六月に猪苗代 |
湖南の三代で、作成された名簿に歩兵小頭役と記録される。 |
平隊士 |
駒之助、鍋之介とも称す。慶応四年三月の五兵衛新田駐屯以降の入隊で、八月二十一日の |
母成峠の戦いに負傷し、たが、新選組慰霊碑に名前があることから、そのまま、死亡した |
可能性もある。 |
平隊士 |
慶応四年三月の五兵衛新田駐屯以降の入隊で、六月に猪苗代 |
湖南の三代で、作成された名簿に歩兵小頭役と記録される。 |
平隊士 |
鍋三郎とも称す。慶応四年三月の五兵衛新田駐屯以降の入隊で、閏四月二 |
十五日白河口の戦いに討死した。新選組慰霊碑に名前が刻み込まれている。 |
平隊士 |
慶応四年三月の五兵衛新田駐屯以降の入隊で、六月に猪苗代湖南の三代で、作成された名 |
簿に歩兵小頭役と記録され、仙台で降伏したことが「徳川旧藩無宿人浪士」に記される。 |
平隊士 |
沢釆女。旧桑名藩重臣。初めは吉久満、または主水。諱を良雋とも。箱館戦争時の変名 |
を青地源太郎。箱館編成の新選組改役下役。吉村翠山(東里将監とも)の息子として生ま |
れ沢図書の養子となり桑名丸の内に住居。天保十四年家督を継ぐ。御奏者番格組外、御 |
奏者番、御番頭、御老分御月番職を歴任、禄高七百石。慶応四年三月、藩侯松平定敬の |
供をしてロシア船に乗り江戸から越後柏崎に赴き、桑名藩軍編成にあたって藩侯御膝元 |
付御政事総裁。明治元年九月中旬、仙台において新選組に加入、蝦夷地鷲ノ木上陸時は |
差図役となる。同年十一月か翌二年一月頃より会計頭取を兼任するが体調を崩して会計 |
が主任務となったらしい。のち、改役下役兼会計頭取となり、五月十五日、弁天台場に |
て降伏、謹慎。津軽藩御預けの後、東京送りとなって旧藩に引き渡され、翌三年一月に |
許された。 |
平隊士 |
明治元年、仙台で降伏した「徳川旧藩無宿浪士」二十三名のひとりで、その中に十 |
数名の新選組隊士がいることから、會津戦争時には、入隊していたものと思われる。 |
平隊士 |
元唐津藩士で、江戸に生まれる。小笠原長行に遅れて北行し、八月に白石で一行と合流。 |
その後、仙台に赴いて九月中旬に入隊し、蝦夷渡航後の明治元年十月二十四日に七重村の |
戦いに負傷する。明治二年四月ごろの編成で第二分隊に所属し、明治二年五月十五日に、 |
弁天台場で降伏した。その後、弘前の薬王院に収容され、東京に送られ、明治三年一月に |
放免される。 |
平隊士 |
明治元年、仙台で降伏した「徳川旧藩無宿浪士」二十三名のひとりで、その中に、十数名 |
の新選組隊士がいることから、會津戦争時には、入隊していたものと思われる。翌年一月 |
に一緒に降伏した、大町通南太郎と勝海舟を訪れ、十両を無心している。 |
平隊士 |
儀三郎とも称す。元會津藩士。慶応四年八月の會津母成峠の戦いに敗れたのち、仙台付 |
近で、青山の回天隊に加わったものか、弁天台場での降伏人名簿に「青山次郎厄介」と |
ある。入隊は青山と同じく、蝦夷渡航後の明治二年一月十五日のことと思われる。 |
同年四月ごろの編成で第三分隊に所属し、五月十五日に弁天台場で降伏。弘前の薬王院 |
に収容されたのち、東京に送られて松代藩預けとなり、明治三年三月に放免となる。 |
平隊士 |
明治元年、仙台で降伏した「徳川旧藩無宿浪士」二十三名のひとりで、その中に、十数名 |
の士新選組隊がいることから、會津戦争時には、入隊していたものと思われる。このとき |
斎藤秀全も一緒に降伏していることから、松本捨助の変名とも考えられる。 |
平隊士 |
會津出身ともされ、慶応四年八月の母成峠の戦いに敗れたのち、仙台付近で、青山の回天 |
隊に加わったものか、弁天台場での降伏人名簿に「青山次郎厄介」とある。入隊は青山と |
同じく、蝦夷渡航後の明治二年一月十五日のことと思われる。裁判役附属として、弁天台 |
場で戦死とするものもあるが、入隊前の所属だったのだろうか。同年五月十五日に弁天台 |
場防戦中に負傷し、十五日に弁天台場で降伏したが、入院のため、その後の収容者名簿に |
名前はない。豊津藩に送られて三年一月に放免される。 |
平隊士 |
明治元年、仙台で降伏した「徳川旧藩無宿浪士」二十三名のひとりで、その中に十 |
数名の新選組隊士がいることから、會津戦争時には、入隊していたものと思われる。 |
平隊士 |
勝二郎とも称す。入沢安左衛門の子として、嘉永二年に、江戸で生まれる。田安家の家臣 |
岩崎新太郎厄介ということだが、新選組入隊までの経緯は不明。明治二年四月ごろの編成 |
で第三分隊に所属し、五月十五日に弁天台場で降伏する。弘前の薬王院に収容されたのち |
再び弁天台場へ送られ、三年四月に静岡藩へ引き渡された。 |
平隊士 |
江戸に生まれ、代々の浪人だった。旧幕軍に加わり、會津戦争では、慶応四年閏四月二十 |
八日に大桑で負傷し、蝦夷渡航後の十一月五日に松前でも、負傷していることから、入隊 |
は、明治二年になってからの事と考えられる。同年四月ごろの編成で、第二分隊に所属し、 |
五月十五日に弁天台場で降伏する。弘前の薬王院に収容されたのち再び弁天台場へ送られ、 |
三年四月に静岡藩預けとなった。 |
平隊士 |
上総飯野藩の出身ともされるが、旗本松平民部家来の中山幸右衛門の子として安政元年に |
江戸で生まれ、本郷菊坂台町に兄の大橋山三郎と同居していたことが記録される。 |
新選組入隊までの経緯は不明だが、明治二年四月ごろの編成で、第一分隊に所属し、同年 |
五月十五日に、弁天台場で降伏。弘前の薬王院に収容ののちに東京に送られ、名古屋藩預 |
けとなり五年六月に放免となる。 |
平隊士 |
治郎とも称す。幕府遊撃隊の青山濤太郎の弟で、江戸に生まれ、青山に住居していた慶応 |
四年四月に回天隊を結成して頭取となり、各地を転戦し、蝦夷渡航後の明治二年一月十五 |
日に隊士二十名を引連れて入隊する。同年四月ごろの編成では、差図役となるが、五月十 |
五日に弁天台場で降伏した。弘前の薬王院に収容されたのち、再び弁天台場に送られ、三 |
月には、台場内二番長屋収容人の人数取扱を、申し付けられている。翌年四月には、静岡 |
藩預けとなった |
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平隊士 |
銀次郎とも称す。土岐善次郎。元唐津藩士で嘉永元年唐津で生まれる。小笠原長行が江戸 |
を脱した際に同行し、九月中旬に仙台で入隊した。蝦夷渡航後、明治二年四月ごろの編成 |
で第四分隊嚮導役をつとめるが、五月十五日に弁天台場で降伏し、弘前の薬王院に収容さ |
れる。東京に送られ、旧藩に引き渡されて、明治三年一月に放免となる。 |
平隊士 |
高仲重次郎。元唐津藩士で、天保十二年に江戸で生まれる。小笠原長行が江戸を脱したと |
きに随従し、九月に白石から仙台に赴き、中旬に入隊した。蝦夷渡航後の明治元年十月二 |
十四日、七重村の戦いに負傷し、翌年四月ごろの編成で会計方をつとめたが、五月十五日 |
に弁天台場で降伏する。その後、弘前の薬王院から東京に送られ、旧藩に引き渡されて、 |
三年一月に放免となる。 |
平隊士 |
内蔵介、内蔵之助とも称す。元旗本で、江戸に生まれる。戊辰戦争にさいして、新選組に |
入隊するが、それまでの経緯は不明。明治二年五月十五日に弁天台場で降伏するが、病院 |
入りとされており、十一日からの箱館総攻撃に負傷した可能性もある。 |
退院後の八月に東京に送られ、久保田藩預けとなって、明治三年一月に放免された。 |
平隊士 |
帆足徹之助。幼名を馬之助、のちに三治。唐津藩士。印具官太興治の長男として、天保十 |
四年五月二十二日に生まれる。嘉永二年に出仕し、勘定役、御徒目付席などを経て、慶応 |
四年三月に朝廷の命によって藩兵と唐津を出立し、さらに京都から江戸へ到着すると、単 |
独で脱走した。旧幕艦長鯨で八月十九日に塩釜に上陸し、白石の小笠原長行に合流を果す |
と、九月中旬に仙台で入隊する。蝦夷渡航後の所属をはじめ、降伏の月日、場所、収容先 |
ともに不明。明治元年十月二十四日に、七重村で三好胖が討死し、その相手を発見して、 |
仇を討ったという。旧藩に引き渡されてからも永蟄居を命じられていたが、明治三年三月 |
になって許され、親戚筋の帆足家に入って跡を継いだ。明治三十三年五月二十七日に五十 |
七歳で死亡し、佐賀県唐津市西寺町の近松寺に位牌がある。 |
平隊士 |
旗本松平民部家来の中山幸右衛門の子として、天保三年に江戸で生まれ、本郷菊坂台町に |
弟の上田安達之助と住んでいた。新遊撃隊に召し出され、戊辰戦争にさいして、新選組に |
入隊するが、それまでの経緯は不明。明治二年五月十五日に、弁天台場で降伏し、弘前の |
薬王院に収容されて、のち東京に送られ、名古屋藩預けとなって、三年一月に禁錮を解か |
れ、五年六月に放免となる。 |
平隊士 |
元桑名藩士で越後に生まれ、戊辰戦争における桑名軍の編成では御勘定方に属し御勘定方 |
下役をつとめ、北越から會津へと転戦し、九月中旬に仙台で入隊する。蝦夷渡航後の明治 |
元年十月二十四日に七重村の戦いで負傷し、同二年四月ごろの編成では、第二分隊に所属 |
し、それ以前にも東組二番の一員として、市中警護の任にあった事が記録されている。同 |
年五月十五日に弁天台場で降伏し、弘前の薬王院に収容されたのち、東京芝の最勝院で旧 |
藩に引き渡され、三年一月に放免。 |
平隊士 |
備中帯江の農民京右衛門の子として生まれ、戊辰戦争にさいして、新選組に入隊するが、 |
それまでの経緯は不明である。明治二年四月ごろの編成で会計方をつとめ、五月十五日に |
弁天台場で降伏し、弘前の薬王院に収容されてのちに、東京に送られた。 |
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平隊士 |
角ヶ谷とも称す。桑名藩士角谷文内の子として、弘化二年に江戸で生まれる。御馬廻役、 |
御小姓役をつとめ、柏崎での桑名軍の編成で、御軍事方御小姓軍監退助勤となる。北越を |
転戦しながら、會津に入るが、九月中旬に仙台で入隊した。蝦夷渡航後は差図役下役をつ |
とめ、明治二年四月ごろの編成で、改役となる。五月十一日からの弁天台場防戦中に負傷 |
し、十五日に弁天台場で降伏した。弘前の薬王院に収容されたのち、東京送りとなって、 |
十一月に芝の最勝院から旧藩に引き渡されて深川の霊厳寺に入り、桑名に送られて、明治 |
三年一月に放免となる。 |
平隊士 |
元桑名藩兵で、明治元年九月中旬に仙台で入隊する。蝦夷渡航直後の十月二十四日、七重 |
村の戦いで負傷したが、石井勇次郎に助けられ、フランス軍人の手で後送された。重傷だ |
ったのか、その後は復帰の記録もなく、翌年八月に東京へ送られて島原藩へ引き渡され、 |
明治三年一月に放免。 |
平隊士 |
三河吉田藩士の松井郷右衛門の子として、嘉永元年に生まれる。戊辰戦争にさいして、新 |
選組に入隊するが、それまでの経緯は不明。明治二年一月前後には、東組一番の一員とし |
て、市中警備の任にあったことが記録され、五月十五日に弁天台場で降伏。弘前の薬王院 |
に収容され、東京に送られ、芝の最勝院に入り、旧藩に引渡されて、豊橋で禁錮ののち、 |
明治三年二月に放免された。 |
平隊士 |
小治郎とも称す。嘉永三年に江戸で生まれ、四ッ谷西念寺横町に住居していた。旧幕軍で |
炮兵差図役をつとめていたが、新選組に入隊し、明治二年四月ごろの編成で、第一分隊嚮 |
導役となる。五月十五日に弁天台場で降伏し、弘前の薬王院に収容されたのち、再び、弁 |
天台場に送られ、三年四月に静岡藩へ引渡される。 |
平隊士 |
佐次広とも称す。桑名藩士佐治頼母為約の三男として、嘉永元年三月二十二日に生まれる。 |
柏崎での桑名軍の編成で御供方御小姓となって、北越を転戦しながら會津に入り、九月中 |
旬に仙台で、入隊した。蝦夷渡航直後の明治元年十月二十四日七重村の戦いで戦死したと |
もされるが、死亡は、十一月三十日のことであり、重傷を負っての死亡と思われる。二十 |
一歳。遺体は、箱館の高龍寺に葬られた。 |
平隊士 |
桑名藩領越後苅羽郡新道村の農民善三郎の次男として、天保三年に生まれる。柏崎での桑 |
名軍の編成で御供方に属し、北越を転戦しながら、會津に入るが、九月中旬に仙台で入隊 |
した。蝦夷渡航後の明治元年十月二十四日に七重村の戦いに負傷し、翌年四月ごろの編成 |
で、第四分隊に所属。五月十五日に弁天台場で降伏し、弘前の薬王院に収容されたのち、 |
東京に送られ、旧藩に引渡されて、三年一月に放免された。 |
平隊士 |
元備中松山藩士で、弘化三年に松山城下鉄砲町に生まれる。御中小姓をつとめ、板倉勝静 |
が、江戸から日光に脱したさいに同行したが、再び江戸に戻って、旧幕艦長鯨で仙台に入 |
った。九月中旬に入隊し、蝦夷渡航後の明治二年一月前後には、東組一番の一員として、 |
市中警備の任にあったことが記録されている。五月十一日の箱館総攻撃では、称名寺の屯 |
所から、弁天台場へと駆けつけたことが伝えられ、十五日に弁天台場で降伏した。弘前の |
薬王院に収容されて東京送りとなり、芝の最勝院で旧藩に引渡され、明治三年一月に放免 |
となった。 |
平隊士 |
川邑とも、八十左衛門とも称す。元備中松山藩士で、文政十一年に江戸で生まれる。慶応 |
四年に彰義隊に同調しようとしたが果せず、旧幕艦長鯨で江戸を脱出し、九月中旬に仙台 |
で入隊。蝦夷に渡航し、明治二年四月ごろの編成で会計方となるが、それ以前には沖之口 |
取締の任にあったことが記録される。五月十五日に弁天台場で降伏し、弘前の薬王院に収 |
容されたのち東京に送られ、芝の最勝院で旧藩に引渡されて、三年一月に放免となる。 |
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