平隊士 |
主膳とも称し、文久三年六月ごろ入隊し、八月十八日の政変に出動したものと思われる。 |
同年九月二十五日に荒木田左馬之助らと計り、永倉新八、中村金吾を暗殺しようとするが、 |
失敗し、翌二十六日には長州の間者として、井上源三郎に襲われ、沖田総司、藤堂平助に |
追われたが、背中に一太刀を浅く浴びただけで逃走した。その後は不明である。 |
平隊士 |
文久三年六月以降に入隊し、八月十八日の政変に、 |
出動したものと思われるが、池田屋事変以前に離隊した。 |
平隊士 |
文久三年五月までに入隊したものと思われる。同月二十五日に、壬生浪士組三十四名が、 |
連名で幕府に提出した上書に名前を見せるが、同年七月以前に離隊したものと思われる。 |
平隊士 |
蔵之允とも称す。文久三年五月までに入隊し、同月二十五日に、壬生浪士組三十四名が連 |
名で、幕府に提出した上書に名前を見せ、八月十八日の政変に出動したものと思われる。 |
元治元年六月池田屋事変では、土方歳三に属して、屋外の守備につき、褒賞金十五両を賜 |
るが、慶応元年七月以前に離隊する。 |
平隊士 |
一郎とも称す。文久三年秋以降に入隊し、元治元年六月池田屋事変では、土方歳三に属し |
て、屋外の守備につき、褒賞金十五両を賜る。同年十二月の編成では、松原忠司の七番大 |
炮組に所属し、慶応二年九月の三条制札事件では、五番組に属して、原田左之助らととも |
に、土佐の藤崎吉五郎を斬り、十五両の恩賞金を賜る。慶応三年六月の幕臣取立てでは、 |
平士として、見廻組並御雇の格を受けるが、十二月までに離隊する。その後は不明である。 |
平隊士 |
文久三年五月までに入隊し、同月二十五日に壬生浪士組三十四名が、連名で幕府に提出し |
た上書に名前を見せる。以後事跡は伝わらず、同年七月までに離隊したものと思われる。 |
平隊士 |
峯太、岸太とも称し、文久三年七月ごろに入隊し、元治元年六月の池田屋事変では、土方 |
歳三に属して屋外の守備につき、褒賞金十五両を賜る。同年十二月の編成では、伊東甲子 |
太郎の二番組に所属し、慶応三年六月の幕臣取立てでは、平士として見廻組並御雇の格を |
受けるが、十二月までに離隊した。明治八年には京都で警察官に採用されたと云われている。 |
平隊士 |
石川武雄。備中松山出身で文久三年七月以降に入隊し、元治元年六月の池田屋事変では、 |
土方歳三に属して、屋外の守備につき、褒賞金十五両を賜った。同年十二月の編成では、 |
伊東甲子太郎の二番組に所属した。慶応三年六月の幕臣取立てでは、平士として見廻組並 |
御雇の格となる。翌年一月の鳥羽伏見の戦いを経て、江戸に帰還したのちに脱走し、その |
後、明治二年十一月十二日には、岩崎一郎、結城有無之助と日野に、佐藤彦五郎を訪ね、 |
近藤勇、土方歳三の名跡について相談し、三年一月二十二日には、勝海舟のもとを訪れて |
無心したことが、「海舟日記」に記されている。 |
平隊士 |
篠塚とも、峯三、岸三とも称す。文久三年、六月以降に入隊し、八月十八日の政変に出動 |
したものと思われる。元治元年六月の池田屋事変では、土方歳三に属して、池田屋到着後 |
は屋内で戦い、褒賞金十七両を賜った。近藤勇が東下中の同年十月五日、留守を預かる、 |
土方歳三が、松平容保を通じて、入隊前の主に乞われ、江戸の近藤に「篠塚峯三儀、松平 |
肥後守殿へ古主よりたっての御願いに付き、余儀なき次第にて先主人にあい渡し候−」と |
離隊を許した旨の手紙を書いている。「篠」は、丹羽篠山の「ささ」と読み「岸」は、峯 |
の誤読である。 |
平隊士 |
文久三年六月以降に入隊し、八月十八日の政変に出動した |
ものと思われるが、池田屋事変以前に離隊している。 |
平隊士 |
良三とも称し、丹羽亀山の出身で、文久三年六月以降に入隊し、八月十八日の政変に出動 |
したものと思われる。元治元年六月の池田屋事変では、土方歳三に属して、屋外の守備に |
つき、褒賞金十五両を賜った。九月の葛山武八郎の切腹に際しては、谷三十郎とともに、 |
頼越人となって光縁寺を訪れている。同年十二月の編成では、井上源三郎の三番組に所属。 |
慶応三年六月の幕臣取立てでは、平士として、見廻組並御雇の格を受けたが、鳥羽伏見の |
戦いで、六日に橋本で戦死。あるいは、三日に伏見での戦死ともされる。四十七、八歳と |
され、新選組慰霊碑に名を刻む。 |
国事探偵方 |
竜次郎とも称す。宇都宮の出身で、文久三年六月ごろに入隊して、国事探偵方を務め、八 |
月十八日の政変にも、出動したものと思われる。同年九月二十五日に越後三郎らと計り、 |
永倉新八、中村金吾を暗殺しょうとするが失敗し、翌二十六日、長州の間者として、沖田 |
総司と藤堂平助に襲われたが、窓を破って逃走した。その後は不明である。 |
平隊士 |
文久三年六月以降に入隊し、八月十八日の政変に出動した |
ものと思われるが、池田屋事変以前に離隊している。 |
平隊士 |
柳元斎と称し、文久三年五月までに入隊した。馬詰柳太郎の父親で、同月二十五日に壬生 |
浪士組三十四名が、連名で幕府に提出した上書に名前を見せ、八月十八日の政変にも出動 |
したと思われる。池田屋事変当日、あるいは、それ以前に脱走したと伝えられ、この時四 |
十六、七歳と伝えられる。その後は不明である。 |
平隊士 |
文久三年五月までに入隊し、同月二十五日に、壬生浪士組三十四名が、連名で、幕府に提 |
出した上書に名前を見せる。以後事跡は伝わらず、同年七月以前に離隊している。 |
平隊士 |
阿波の出身で、文久三年六月以降に入隊した。八月十八日の政変にも、出動したと思われ |
る。池田屋事変には、不参加で、同年十二月の編成にも名前はないが、慶応元年七月まで |
の在隊が、確認される。慶応元年夏の編成で、柔術師範をつとめる。梁田佐太郎と同一人 |
物と思われる。 |
平隊士 |
文久三年五月ごろに入隊し、同月二十五日に壬生浪士組三十四名が、連名で幕府に提出し |
た上書に名前を見せる。以後事跡は伝わらず、同年七月以前に離隊している。 |
伍長 |
勇二郎、勇三郎、勇太郎、主計、雅次郎とも称し、上総、あるいは、京都の出身とされる。 |
元治元年、十二月までの、京坂における隊士募集に応じて入隊し、同月の編成では、安藤 |
雅次郎の名で、谷三十郎の八番大炮組に所属する。慶応二年九月の、三条制札事件では、 |
原田左之助の七番組伍長として、出動し、褒賞金十五両を賜る。慶応三年六月の幕臣取立 |
てでは、調役として、見廻組並御雇の格を受ける。翌年一月の、鳥羽伏見の戦いを経て、 |
江戸に帰還するが、ほどなくして病死した。新選組慰霊碑に名を刻む。 |
平隊士 |
文久三年六月から、七月にかけての、在隊者五十名を列記した、隊士名簿に名前を残し、 |
八月十八日の政変にも、出動したものと思われる。西村兼文の「新選組始末記」には、同 |
年九月二十三日に、近藤勇の意に反するところから殺害されたと伝えられるが、壬生寺に |
ある墓碑から、十三日の死亡であった事が確認される。死亡の時期と状況から、新見錦の |
別名であった可能性がある。 |
平隊士 |
文久三年五月ごろに入隊し、同月二十五日に、壬生浪士組三十四名が、連名で幕府に提出 |
した上書に、名前を見せる。以後事跡は伝わらず、同年七月以前に離隊している。 |
平隊士 |
文久三年六月ごろに入隊し、八月十八日の政変に出 |
動したものと思われが、池田屋事変以前に離隊した。 |
伍長 |
小太郎とも称し、江戸の出身で、一刀流剣術を使った。元治元年十月、近藤勇の江戸で、 |
隊士募集に応じて上洛し、十二月の編成では、尾形俊太郎の五番隊に所属する。 |
翌慶応元年夏の編成では、剣術師範となり、のちに伍長を務めた。 |
慶応二年九月の三条制札事件では、千疋の褒賞金を賜る。同三年六月幕臣取立てでは、平 |
士として、見廻組並御雇の格を受ける。翌年一月の鳥羽伏見の戦いで、三日に伏見、五日 |
に淀、あるいは、千両松での戦死とされる。横倉甚五郎は「甲州二テ手負、野州板戸二テ |
死」と江戸帰還者に加えているが疑問が残る。 |
平隊士 |
鬼一とも称し、文久三年五月ごろに入隊し、同月二十五日に壬生浪士組三十四名、連名で |
幕府に提出した上書に名前を見せる。八月十八日の政変に、出動したものと思われるが、 |
池田屋事変以前に離隊している。 |
平隊士 |
文久三年五月までに入隊し、同月二十五日に壬生浪士組三十四名、連名で幕府に提出した |
上書に名前を見せる。八月十八日の政変に出動したものと思われが、池田屋事変以前に、 |
離隊している。 |
平隊士 |
文久三年六月以降に入隊し、八月十八日の政変に出動 |
したものと思われるが、池田屋事変以前に離隊した。 |
平隊士 |
天保十年、武州に生まれる。元治元年十月、近藤勇の江戸での隊士募集に応じて上洛 |
する。十二月の編成では、名前を見せないが、小原孔三と改名したためと思われる。 |
平隊士 |
文久三年五月までに入隊し、同月二十五日に、壬生浪士組三十四名が、連名で幕府に提出 |
した上書に名前を見せる。以後事跡は伝わらず、同年七月以前に離隊したものと思われる。 |
平隊士 |
江戸出身で、元治元年十二月までの京坂における、隊士募集に応じて入隊し、同月の編成 |
では、松原忠司の七番大炮組に所属した。慶応三年の幕臣取立てでは、平士として見廻組 |
並御雇の格を受けたが、翌年の鳥羽伏見の戦いを経て、江戸に帰還した後に脱走する。 |
平隊士 |
野馬とも称する。文久三年六月以降に入隊し、八月十八日の政変 |
に出動したものと思われるが、池田屋事変以前に離隊している。 |
平隊士 |
早太郎とも称しす。近江彦根の出身で、元治元年十二月までの、京坂における隊士募集に |
応じて入隊し、同月の編成では、武田観柳斎の六番組に所属する。 |
慶応三年の幕臣取立てでは、平士として見廻組並御雇の格を受けたが、翌年一月鳥羽伏見 |
の戦いを経て、江戸に帰還したのちに離隊した。 |
平隊士 |
文久三年六月以降に入隊し、八月十八日の政変に、出動したものと思わ |
れるが、池田屋事変以前に離隊した。上田清蔵と同一人物かもしれない。 |
平隊士 |
元治元年十月、近藤勇の江戸での、隊士募集に応じて上洛する。十二月の編成では、尾形 |
俊太郎の五番組に所属するが、以後の記録は無い。その後、慶応元年七月までに木下巌と |
改名したためと思われる。 |
平隊士 |
文久三年六月以降に入隊し、八月十八日の政変に出動 |
したものと思われるが、池田屋事変以前に離隊した。 |
平隊士 |
天保八年、加賀に生まれる。小野派一刀流剣術を使い、元治元年十月、近藤勇の |
江戸での隊士募集に応じて上洛したが、十二月の編成に名前はなく、入隊直後に |
離隊したものと思われる。 |
平隊士 |
文久三年五月までに入隊し、同月二十五日に、壬生浪士組三十四名が連名で、幕府に提出 |
した上書に名前を見せる。以後事跡は伝わらず、同年七月までに離隊したものと思われる。 |
平隊士 |
元治元年十二月までの京坂における、隊士募集に応じて入隊し、同月の編成 |
では、沖田総司の一番組に所属するが、慶応元年七月以前に離隊している。 |
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