25. 芹沢、虎と対決する ..04/13(Tue) 14:22[25]

八木為三郎老人の思い出話として語られ子母澤寛が「新選組遺聞」に書いたもの。
京の松原烏丸因幡薬師の境内に、大虎の見せ物が来たことがあった。
芹沢は隊士たちを連れて見物に出かけた。虎のほかにオウムやインコなど、
何しろ当時の日本では見ることの出来ない珍しい輸入動物たちの見せ物だけに、
虎は人間が皮をかぶっているのだと噂になり、芹沢はよし、それなら確かめてやると
脇差を抜いて檻の間から刃を虎の目の前に差し出した。すると虎が「ウオォ」と吠え、
「これァ本物だよ」と笑って脇差をおさめたという。
他の京都町民の記録によればこの見せ物は文久三年九月一日からの開催で、
八月に死んだ隊士の佐々木愛次郎が、興業元と芹沢の喧嘩に仲裁に入り、あぐりという
美女とその縁で知り合ったという「新選組物語」での追加分は虚構ということになる。


26. 芹沢、槍とも対決する ..04/13(Tue) 14:22[26]

八月十八日の政変の時、壬生浪士組も警備の一隊として仙洞御所への出動を要請された。
芹沢、近藤は大将として具足に固め烏帽子をかぶりいかめしい格好、隊士52人は揃いの
浅葱地に袖口は白い山形をつけたダンダラ羽織を着用、提灯にも山形模様に誠忠の二字を
染め、一同張り切っての出陣となった。
しかし、蛤御門を守備する会津兵がどうしたことか壬生浪士を不審な者として扱い、
聞いていないの一点張りで通行を許そうとしない。
浪士たちも、会津からの要請でお役目で来たのだから通せないわけがあるか、と
一触即発の険悪なムードになった。
ついに会津藩兵たちは槍の鞘を取り、ずらっと抜き身を突き出して詰め寄った。
ところが芹沢は、顔の先まで迫る槍ぶすまに対して、腰の鉄扇をとりだして
五寸ほどの近さで扇ぎたてながら「悪口雑言」を朗々とまくしたてた。
君たち大分頭に血がのぼってるようだから、風で冷やしてあげましょう、という
ような態度である。
あわや、というところで会津藩の公用係が現場に駆けつけて事情が判明し、無事に
通行出来、味方どうしである事がわかるようにと黄色のたすきも支給され、事なきを
得たのであるが、会津藩士たちは、「芹沢は大事には至るまいとわかっていて
やった事だろう。大胆と申すべきだろうが、それにしても、にくさもにくし」
と言い合っていた。
この出動の功に対して、壬生浪士組が「新選組」の隊名を賜る記念すべき日でもあった。


27. 芹沢、照れたりもする ..04/13(Tue) 14:22[27]

会津藩の記録によると、壬生浪士の中でも、
「近藤勇は智・勇とも兼ね備わり、何の交渉ごとでも滞りなく返答できる」と
手放しで誉めているのに対し、
「芹沢鴨はあくまで勇気強く、乱暴で、配下の者が自分の気にいらない事をすると
死ぬほどぶんなぐる事があるそうだ」
と、書いている。ただし二人とも才力勇気をもって大将とあがめられており、
誰も逆らわずにいる、とも。
そんな強気な芹沢だが、八木家にはこんな話もある。壬生の隊士たちが住み着く
ようになってから、金もなく日用品にも不足しているので、ちょっと貸してと
行っては家の物を持っていく。使ってきちんと返ってくるのはまれで、弓の弦が
切れたままこっそり戻してあったり、こわれていたり、持っていきっぱなしの事も
多く、家族は「貸せといわれたらくれてやったのと同じ」と思ってあきらめていた。
ある時、唐金(金属製)の火鉢が、しばらく見かけないと思っていたらいつの間にか
そっと戻されており、しかも明らかに、刃が食い込むほどにつけた深い刀傷がある。
よほどの腕前で試し斬りをしたものらしく、八木源之丞がびっくりして、
これはどなたが?というと、そこにいた芹沢が急に決まりが悪そうに、
「俺だ俺だ」と言いながらそそくさと逃げていった。


28. 近藤は清河八郎一派をねらっていた ..04/13(Tue) 14:22[28]

浪士組上洛の後、清河八郎らが「幕府に集められたとはいっても
我々は禄を受けたわけではない。あくまで朝廷への尽忠報国」と
して建白書を奏上し、その後将軍の上洛も待たず攘夷のため
関東に戻ると発表した。
これに対し芹沢、近藤が異議を唱え京に残留したのは有名である。
浪士取締役付属の草野剛三の回想談には、
「京に来たのは都の警衛のためで、我々は徳川将軍の指揮を
受けるものである。それなのに八郎らは将軍の命令を奉ずる為に
上京したのではなく別の目的で行動するという。八郎らと関東に
帰っても、到底事を共にする事は出来ぬ」
「近藤勇は、私等は江戸へ行きたくない。自分等は相談もして
容保公の手について王城を守っているのだという話がありました」
などとして、東帰か京残留か相互に激論し刃をもって決するとまでの
対立ムードになったことを示している。
全体の命令に服さないなら近藤らに腹を切らせよという話まで
出たが、同じ勤皇だから、本人達が王城を守りたいというなら
やむを得まい、となったようである。こうした状況のもとに
浪士隊江戸出発の前に、首謀者清河殺害の計画が起こっていた。
永倉新八は、晩年の「新撰組顛末記」では、会津の命令で
芹沢と近藤の二組にわけて、清河の所用の帰り道を待ち伏せたと
している。
近藤勇自身が、五月に日野の佐藤彦五郎らへあてた書簡には、
襲撃の意思があった事が記されている。

「清川八郎、村上俊五郎、石坂周造、木村久之丞、
斎藤熊三郎、白井庄兵衛、右六人は洛陽(=京都)に
おいて梟首致すべしと周旋つかまつり候ところ、
折悪しく誅戮をくわえず候。」


29. 大家の八木さん、芹沢相手に引かず ..04/13(Tue) 14:22[29]

壬生村郷士の数件の家に分宿していた新選組隊士。隊の本営は前川邸だったが、
隊士達に明け渡した格好で前川家の家族は京の別宅に越していたという。
八木家は家族も隊士たちと同居を続け、子息為三郎の談話で最も有名になった
「新選組の大家さん」である。
八木家で葬儀があった時、出棺の時に壬生では人々が槍を左手に持ち葬列を
送る風習があったのを芹沢鴨が見て「槍を左手に持つのはおかしい。槍は右手に
持つものだ。八木さん、なおしなさい」と指摘。横槍を入れるとはまさにこの事で
八木源之丞は「これはこの地のならわしです」と答え、近藤も「不幸の時だから
あえて逆にするのかもしれません」と助言した。
確かに、死者には着物を左前に着せるなど、通常とは逆にする場合がある。
しかし芹沢は「間違った作法に理由などあるか」といって譲らない。
この時ばかりは八木源之丞もムッとして聞き入れずそのまま行ってしまった。
「芹沢は胆力はあるがどうも投げやりでいけない。近藤のほうが一枚上手だ」
と家族の前では評していたという。


30. 沖田、幼い子を気の毒がる ..04/13(Tue) 14:22[30]

沖田総司のイメージを決定づけたといってもいいのが、八木為三郎が
「壬生寺でよく鬼ごっこやかくれんぼをして遊びました」と言ったという
話だろう。村の子供たちから見て、新選組にはそれこそ若いお兄ちゃんたちが
たくさんいたわけで、ひまな時に遊び相手をしてくれた子供好きの隊士たちも
いたろうが、為三郎は沖田の印象が強かったようで「二十歳になったばかり
ぐらいで、私のところにいた中では一番若い人」だと思っていたようである。
実際には藤堂平助や斎藤一のほうが年下なのだが、子供心で見たままの印象
なのだろう。
その八木邸内で芹沢鴨が暗殺される。当主源之丞は留守だったが、夫人のまさは、
土方らしき男が事前に偵察にきたところから、数人の刺客が襲撃して去った現場まで、
暗闇の中でハッキリとではなくても、目撃している。芹沢は寝室で襲われ、廊下を
出て子供用の文机につまづき倒れたところを追撃され、為三郎、勇之助という
二人の子供がぐっすり眠ったままの布団の足元で絶命したのである。
まさは恐怖で叫びながら子供らを起こし、家では大騒ぎになり血の現場となった
自宅からひとまず子供たちを親戚に避難させたが、そこで勇之助の足を洗って
いると「痛い痛い」といって泣く。知らぬ間に、足の裏に刺客の刃先があたって
ぱっくりと傷を負っていたのだ。この事を後日に聞いた沖田は、八木源之丞に
「勇坊まで怪我したそうですね」とさも気の毒そうに言っていた。
八木家では近藤派が刺客だとわかっていても他言しなかったし、当の沖田も
実は芹沢を斬ったのは自分達です、とはいえないのは勿論だが、小さい子に
巻き添えを食わせ申し訳ないという気持ちだったのだろう。


31. 壬生浪も怖いばかりでなく ..04/13(Tue) 14:22[31]

壬生にいる浪士だから略した呼び名が「壬生浪」(みぶろ)であって、狼のように恐れられた
から壬生「狼」というのは後年の創作でしかない。
新選組の隊名が出来てからも、記録で書かれる壬生浪人、壬生浪士、など、
実際には西本願寺のほうが屯所としての期間は長いのだが、新選組といえば壬生、という
イメージはついてまわっていたようだ。
郷里を離れ全国から集まってくる血気盛んな年代の隊士たちだけに、壬生の村人にとっては
荒っぽくて騒がしく迷惑したことも多々あったのは確かだろうが、だんだんにつきあってみると
悪い人ばかりでもない、と思うようになるのが人情というもので、中には
「親切者は山南、松原」と呼んだという。
ある時、壬生村にまぎれこんだならず者が、村の娘を追いまわし悪さをしようとするので、
村人が新選組の屯所に走って助けを求めた。隊士たちの数人がよしわかったと駆けつけて
たちまち撃退してやったので、流石に新選組やなア、と感謝されたという話もある。
西本願寺に移転してからも、隊士たちが壬生寺の境内に大砲調練に訪れたり、実家のように
何やかやと遊びに来たりするので、ずいぶん長い間いたような気がする、と八木家では
思っていた。


32. 八木さんのシャレたはからい ..04/13(Tue) 14:22[32]

さて池田屋以降、人数の急増した新選組では、壬生村の郷士宅への分宿状態で、
集合の時には間の道路から太鼓で呼集をかけたというが、だんだんに手狭になり
万事に不便になる一方である。そこで慶応元年春、ようやく西本願寺の一角へ
屯所を移転ということになるのだが、出立の前に土方歳三が座敷で八木源之丞の前に
うやうやしく紙包みを差し出し、「ながながお部屋をお借りした寸志です」と
謝礼の挨拶をした。しかし開けてみたら礼金は何とたったの五両。後で聞いたら
前川邸には十両だったという。まさにほんの気持ち、寸志もいいところであるが、
源之丞は「二年も三年もいた家賃にしては安いなあ」と笑って、その五両ですぐ
樽酒を買い、引越し祝いとして新選組に贈ってやった。
後から沖田が相変わらずのさのさしながらやってきて言ったという。
「八木さん。近藤先生が、顔から火が出るっていってましたぜ」


N E X T B A C K




新選組屯所へ戻る




このページは幕末維新新選組の著作物です。転載転用を禁じます。
Copyright©All Rights Reserved by Bakumatuisin Sinsengumi