33. 良順先生の総回診です ..04/13(Tue) 14:22[33]

慶応元年閏五月、将軍に随行した幕府医師松本良順が京都へ着くと、近藤が
早速に宿(会津人の医師南部精一宅)へ訪れ再会を祝す。次には良順のほうが
一日余暇を作って、西本願寺の新選組屯所へ招きに応じた。近藤と歓談するうち
良順は、隊士たちの暮らしている所もぜひ見てみたい、と希望し、土方が案内役を
任され近藤も一緒に巡回した。
あたかも梁山泊に来たようで、刀剣を磨く者、鎖帷子を調整している者など
総勢百七、八十もいるだろうか「勇壮激烈の状、甚だ壮快なり」と勇ましい様子に
感心したものの、中には横になったり仰向けで寝ている者、すっぱだかで大事な
ところも隠さずごろ寝している者までいるのに驚き、あえて一巡し終わってから
「局長、次長(=副長)が共に見回っているというのに裸で寝転がっているなど、
上長に対して失礼ではないか、規律と節制を厳しくしたほうが良い」と指摘したところ、
近藤は、彼らは病人なのでそのままで良いとさせているので許して下さい、と答えた。
しかも医者には隊士各自が勝手に診せているという。良順は三分の一も病人かと驚き、
西洋の病院の概略を説明し図を描いて懇切に対処法を指導した。

・病人は一箇所の快適な病室に集めて布団をならべて安静に寝かせ、
 決まった医者が日々回診して処方箋を作り調薬すること。
 そうすれば一人の医者でも多数の患者を治療できる。 
・看護の役を設けて、患者の寝起きや飲食の世話をさせること。
・浴場を設けて全身の不潔を洗浄させること。

その後も近藤と話しながら数時間たったかと思う頃に土方がやって来て、
先生の仰る通りにしましたのでもう一度ご覧下さい、という。
すでに寺の二十八日講の集会所を借り受けて病室とし、患者が並んで布団に
寝かされており、浴場も風呂桶三個を用意してすっかり整頓されていた。
その措置の敏捷さに良順が驚くと土方が「兵は拙速を尊ぶとはこの事でしょう」
とうまい事を言ったので、お互いに大笑いした。

その後はいわばカルテとなる帳簿を作り、南部精一が毎朝、良順自身も
数日おきに往診して、七十名余りの患者もひと月以内で殆どが全快。
症例の多い順から、風邪、骨折疼痛、食傷、梅毒などがあり、
「難病は心臓病と肺結核の二人のみ」だったという。


34. 良順先生のおかげで ..04/13(Tue) 14:22[34]

松本良順が新選組屯所へ訪問中、厨房も視察したが、何しろ大人数の男所帯、
残飯や生ゴミが樽数個ぶんも溜まっており不潔この上ない。
そこで近藤にまたもや指導。
・この食糧の廃物を利用すれば豚を四〜五頭飼える。豚がよく育ったら解体して
隊士たちの体力増強に最適だから、豚肉を食べさせなさい。
・豚の膀胱はとっておいて、冷罨の用に使いなさい。(=氷嚢のかわり)
・のこりメシは洗って乾かし、ニワトリを飼ってエサにし、とった卵を食べさせなさい。

またまた仕事の早い新選組らしく、次に良順が屯所に行った時にはすでに豚が数頭
飼われていた。のちに時々豚肉が食事に加わることになり、隊士たちは
「先生の贈り物」だと喜んだ。
また、監察の山崎烝がもと医家の息子であり仕事も出来るので、彼に傷口の縫合などの
救急法を伝授してやったところ隊内で大いに役立ち、山崎は「我は新選組の医者なり」と
笑って言っていた。


35. 西本願寺の門主様もびっくり ..04/13(Tue) 14:22[35]

永倉新八の手記によるものだが、西本願寺に思い切り嫌がられるのを承知で
屯所として大挙乗り込んだ新選組。何しろ名だたる大古刹だから境内も広い。
幕府の洋式軍隊化が進むと、新選組でも調練にフランス式を採用するなど
していたが、ある日なんと、寺の境内に会津藩から借り受けた大砲を
持ち出して、ドーン!と大砲発射の訓練を始めた。突然の轟音に
寺側では何事かと驚愕して、せめて次からはやる前の日にでも教えてくれと
頼み込んだ。それを承知した新選組がどうしたか、というと、前もって
予定を立てた砲術訓練は、いつも門主が寺内にいる日に限って、つまり
わざと寺の一番偉い人がいる時にあわせて、ドカンドカンとぶっ放すのである。
これには門主もたまりかね、大砲の音が聞こえると布団をかぶって耐えたと
いい、直接言ってもらちがあかないためか、コネを使って抗議を申し入れ
会津藩からどこか他の場所で行うようにと指示が来て西本願寺内での
砲術訓練だけはやめたというが、こんな調子なのでとうとう西本願寺が
多くの資金を出して不動堂村に豪華な新築屯所の建設が実現した。
永倉は、これも土方歳三の考えだったと記している。


36. フェミニストでロマンチスト伊東 ..04/13(Tue) 22:59[36]

伊東甲子太郎といえば、まさしく美男だったと知られている。
今も彼の和歌集「残しおく言の葉ぐさ」に数々の歌を読む事が出来るが、
独自性というより学校の古文の授業に出てきたような「あれ、どこかで見た」という
語句や言い回しが随所に散りばめられている。これは物真似ではなく、
「本歌取り」といって優れた古歌を下敷きに読者にもあの和歌を元にしたのだなと
連想させることで、古典の教養もバッチリさと匂わせるテクニックだ。
詩歌というのは普通よりも美化して書くのは当然だが。
さて、京都に上った後、江戸の糟糠の妻うめを離縁した伊東。一方、実は都の恋に
熱心だったようなと思わせる歌がある。

  心なき人を心に思いそめ 心乱るる秋の萩原
  かねてより明日ある身とも思わねば いかで契りを結びおくべき
  おのれのみ深くも思いそめにけり うつろいやすき花の色香ぞ
  いかにせん都の花も惜しけれど なれにしあづまの花の名残は
  逢うまでと せめて命の惜しければ 恋こそ人の命なりけり

伊東の愛人は花香太夫という名の遊女だったといい、同一人かは不明ながら
高台寺党時代にも妾宅があった事はわかっている。
一見すると何げない美しい歌、でありながら、実は恋人のことを書いて
いたのでは、とも思えてくる歌がちらほらある。また、

  ふるさとの 母のみ袖に宿るかと 思えば月のかげぞ恋しき

と母を慕うもの、歴史上の女性たちを題に詠んだ連作も記してあり、
女性にやさしかったのは確かだろう。


37. 近藤勇、老父周斎の病を案ず ..04/14(Wed) 22:26[37]

近藤勇は、多摩の郷里に充てた手紙に養父の周斎や留守宅を宜しく頼む、と
書き添えている事が多い。勇たちの上洛後、周斎は重い病床に伏したので
いっそう心配だったのだろう。多摩からは父の為に帰郷を促してきたが、
文久三年九月二十三日、会津藩士広沢富次郎・大野英馬が
宮川音五郎(勇の兄)に書簡を送り、「先日芹沢鴨が病死した為、
局中は近藤氏一人の総括によって保たれています。親子の情は
お察しするが、京都での情勢が落ち着くまで帰郷頂くのは難しく、
ご本人に代わってご看病下さるよう私共からもお願い申し上げます」
としている。唯一の局長となった勇は、親が病気でも関東に帰るわけには
いかなかったのだ。

翌月の十月十五日、勇は松平容保と会津公用方一同にあてて、
新選組に禄位をとの内意は、まだ攘夷・報国の目的も達せず充分な
お役にも立っていないのでと辞退する上書と共に、「口上願書」を出し、
文面の後半には、父のことをかなり長く書き記している。

「私の父は古稀(70歳)の年齢になり、ことに近頃は大病との事です。
忠節と孝行の両道を兼ねて果たすのは賢者でも難しい、まして不肖の私など
及ばない事ばかりです。平穏無事の時なら親のひざもとにいて孝養を
つくすのが当然ですが、昨今のような不穏な情勢では、皇国にご奉公し、
一大事が起きましたら一方の守りに尽力して身命を投げ打つのも
勿論のことだと思っています。山海百里余りも遠く断絶している私共親子
ですが、もし私が誠を尽くし戦死を遂げた時には、父の暮らしを養う
お手当て等に御配慮頂ければ有り難く、他にはいささかも念ずる事は
ございません。」


38. 禁門の変で近藤勇戦死と伝わる ..04/15(Thu) 23:00[38]

元治元年七月の禁門の変と京都大火の報が関東にももたらされると、
江戸や多摩の支援者たちは近藤勇たちの安否をまず心配していた。
七月二十八日には小野路の小島鹿之助の所へ小林某の書簡で
「壬生浪士も格別の働きをしたが、残念ながら近藤勇なども
多く討ち死にしたとの噂がある」との報がもたらされた。
これに驚き、小島、宮川、佐藤、橋本家などは連絡をとりあい、
江戸の試衛館や会津藩士に事情を聞くため面会に行ったり、
近藤、山南、土方、沖田、井上の無事を問う書簡を京都に送るなど、
心痛の日々を送った。
約一ヶ月後の八月二十三日頃には、京都の近藤から実家への手紙、
沖田からの手紙、また京都に行っていた勇の次兄宮川総兵衛の手紙
などが来たことが次々と伝わり、ようやく無事を確認して喜び合った。
「新選組一同無異之由、珍重々々(橋本家日記)」


39. 勝海舟と龍馬と新選組 ..04/15(Thu) 23:11[39]

元治元年六月二十四日、池田屋事件を聞いた勝海舟は、
「京都で当月五日浮浪殺戮の事件があり、壬生浪士の輩が
その場の勢いで罪のない者を殺し、自分の教え子である
望月(亀弥太)などもこの災難に遭遇した。」
と不快感を日記に記している。
八月二十三日、坂本龍馬が京都から江戸に戻り報告した内容。
「京都では会津批判がはなはだしい。会津藩は壬生浪士を用いて
おり、探索との名目で私財をとっていったりするので、庶民が
迷惑するところが最も大きく、ひそかに会津は盗っ人だと
いいあっている。」
彼らにとって旧知の望月亀弥太や北添佶摩が池田屋で死亡し、
残党探索中の明保野亭事件により会津・土佐両藩が対立、
禁門の変でも両軍多くの死者が出たことなどもあり、
龍馬も相当腹を立ててはいたろうが、さんざんな批判である。


40. 佐久間象山の子と海舟と新選組 ..04/15(Thu) 23:11[40]

勝海舟の妹順子が佐久間象山の後妻でもあり、義理の兄弟であることは
知られている。その象山が元治元年七月十一日に京都で暗殺された。
象山の息子で十七歳の恪二郎は、会津藩山本覚馬の紹介で仇討ちの為に
新選組に身柄を預かられることになる。恪二郎は、義母順子に宛てて
九月に手紙を書いている。
「京都に新選組というのがあって、頭の近藤勇という人はとても義気
盛んな人です。ひそかに今度の暗殺のことと身の上を相談したところ、
近藤先生は大いに感激して、何とでもお世話をして仇をとらせて
さしあげるから、安心して新選組に入りなさい。息子の周平同様、
私の附属としましょう。少しも心配ないとのこと。
三浦啓之介(助)と改名して滞在する事になりました」
この頃近藤は江戸に帰還し、代わって土方歳三から勝海舟へ、
甥を引き受けた事について挨拶の書状も送っている。
ただし肝心の恪二郎=三浦啓之助は仇討ちを果たせず、粗暴行為が
多くて隊にもいづらくなり、後に新選組から脱走してしまった。
一説には、三浦がある隊士の前で、高価な愛刀を自慢したところ、
「刀は良くても腕が鈍いのでは」と笑われ、それを根にもっていた。
ある時、土方と沖田が碁を打っているのを、その隊士が横で見物
していると、三浦が背後から不意打ちに斬りかかろうとした。
沖田が素早く三浦を掴んで投げ飛ばし、取り押さえて畳の上に
ぐりぐりと顔をこすりつけて、何故こんな事をしたと問い詰める。
三浦が泣く泣く、腕が鈍いといわれたのが残念で報復したと答えると
沖田は「鈍いのが本当じゃねえか、このざまは何だ」と笑い出したという。
上からの大事な預かり物だった三浦だけに処分はされずにいたようだが、
その後も行いが改まらず、ある時に沖田が珍しく話しかけてきて、
「三浦君、どこかへお供したいな」とニヤッと笑ったので三浦は
連れ出して斬られるものと思い込み、慌てて脱走してしまった、という。


N E X T B A C K




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