41. 近藤、温泉治療に行く ..07/04(Sun) 00:25[41]

京都守護職松平容保は病身で任務に耐えていたが、元治元年二月頃には、
近藤勇も新選組唯一の局長としての多忙や各種ストレスで体調を崩していた。
「しきりに心配致すゆえよりか、意外に多病にあいなり」と自分自身で
知人への書簡に説明している。そして容保公から逆に「なるべく温泉などに
行ったほうが良い」と勧められたので泊りがけで温泉旅行へ出かけていた。
局長自ら京都を離れて湯治、というのだから意外な話ではあるが、周囲が
認めたというほど具合が悪かったのかもしれない。
上洛以来約一年ぶりのゆっくりした休暇、温泉にとっぷり浸かって疲れを
癒していた、ところが出先へ飛脚が来て、容保公が急に守護職を役替え
(異動で軍事総裁職に)と知らされ、その夜のうちに五十丁十六里の道のりを
超えて京に戻る。京都守護職=会津藩お預かりの新選組は今後どうなるのかと
いう大きな問題に局長不在では話にならない。なかなかのんびり療養も
させてはもらえない近藤だった。


42. 原田左之助が七番組 ..07/16(Fri) 23:50[42]

慶応二年の三条橋制札事件。この時の参加者への褒賞金給付の
写しによると、筆頭に名前が挙げられたのは
金二十両宛 七番組頭 原田左之助 とある。
出動して実戦に加わったのは七番組と五番組、
他に、戦闘には至らなかったのが三番組、であり、役付きには
目付役(監察)に新井忠雄、服部武雄。七番組長(伍長)安藤勇三郎、
物見(斥候)が橋本会(皆)助、加藤羆、などがいる。十人ほどは姓名
省略、としてあるものの、永倉新八がもし参加していれば名前が
残るのが当然なので、後年の顛末記で自分が活躍したように
なっているのは虚構と思われる。
原田=十番隊、と記憶されているが、実際はこうして組頭、
副長助勤などの配置や名称は時によって変動していたのである。
この事件唯一の隊長格として土佐に名が知られた原田は、
翌年の坂本龍馬暗殺の下手人に仕立てられた。


43. 祗園の美女の手をひいて ..07/16(Fri) 23:50[43]

慶応元年の三月、花街で有名な祗園一帯が大火災になった。
末吉町より切り通し西入ル万屋店の二階が火元で時刻は六ツ半。
東は祗園一力から三軒ほど隣、西は東川端、南は四条から一丁ほどで
縄手大和橋より北へ西側は残る。類焼家屋1025軒、土蔵12ヶ所、
明け六ツにようやく鎮火。
この時に、新選組、見廻組、別手組などが取り締まりの為に出張。
鎖着込に白鉢巻、抜き身の槍を携えた勇ましいいでたちで、
芸妓・舞妓・遊女の手を引いて、群集に「寄れい、寄れい」と声を
かけながら避難誘導したという。
猛火をこわがる美女たちにしっかりと手を握られて、まさに役得と
いうところだろう。


44. 祗園君尾の自慢話 ..07/16(Fri) 23:50[44]

近藤勇が、祗園で名高い芸妓中西君尾を口説いた時の話が
「勤王芸者」に載っている。

近藤 「イヤイヤ新撰組には口で誤魔化すようなものはおらん、聞いてくれ君尾、
そちに逢うのは初めてじゃが、そちの噂は聞き知っておる。その噂に惚れた。
そちは意気地の強い酔狂な女とみた。ささ、そちに何か客人があるやら
言わぬ。知らぬ。じゃがわしを女にしたらそちのような、もちろん顔形は
とにかく、心が、心がじゃ、よく似た者が出来ようと思う。
京の女は美しいが人形じゃ、魂がない生きておらぬ。その中にそちは
鮒じゃない鯉じゃ。名に惚れた噂に惚れた。芝居の忠臣蔵じゃないけれど
武士冥利、三日でもよいから我が物になってくれぬか。
いやならいやでよい。蛇の生殺しは嫌いじゃ。綺麗に言うてくれ。
わしも関東に育った男じゃ。さっぱりと言うてくれ。わしもこうやって
京都にいるから遊びもすれ、情婦一人はあってもよい。よいけれど
こちらから惚れてもみて面白かろうはそちより他にない。
どうじゃな、あずま男のこう打ち明けすぎた話は気に入らんかな、どうじゃな。」

君尾 「近藤様が天子様の為に尽くす勤王党になっていただけるなら惚れましょう。」

近藤 「新撰組は会津侯に従うものじゃ。今更、近藤はそちの言葉に従う訳には
参らぬ。ことに芸妓ふぜいの言葉に動いたとあっては、世間の評判も
面白くないと申せば、そちとはもはや、無い縁じゃ。」

と、潔く引き下がった近藤に君尾も好感は覚えた、という話。

君尾は長州井上聞多の愛人という位だから、断るのは当然なのだが、
芝居がかったくどき文句は読み物ならではの誇張が強すぎるものの、
よく読むと筋もおかしい。
孝明帝の頃、最も「天子様」に忠勤を信頼されたのは他ならぬ
会津藩主松平容保であり、近藤自身が尊皇・報国の志に篤いことは
自負していたので、「会津侯VS天子様に尽くす勤王党」と図式に
納得するのは後世の佐幕VS勤王という史観である。
とかく噂の高い芸妓を座興にくどいてはみたものの、話の合間に
コチコチの長州びいきとわかって白けたのだろう。
そもそも客とどんな話をしたか他言しないのもプロ意識なのだが。

情婦一人で他にはおらぬとは嘘もいいところで、近藤の女性関係は
名が出ているだけでも、妻ツネの他に鳥山沢、金太夫、深雪太夫、
お孝、お芳、駒野、植野と多彩である。君尾のくどかれ自慢を読んだら
「何言ってるのよ、勇さんはねぇ」と笑うことであろう。


45. 渋沢栄一、新選組に肩を叩かれる ..04/16(Fri) 14:03[45]

京都見廻組の大沢源次郎が、組を離れて不穏な行動をする、謀反の疑いありというので
捕縛の要請が新選組に回ってきた。この時、幕臣として一橋家の渋沢篤太夫、後の栄一が
加わり、その回顧録を残している。
京都町奉行所で近藤勇と渋沢が面会し打ち合わせの後、実際の出動には
土方歳三と隊士五、六名を派遣する事となる。目指す大沢は紫野の大徳寺の
境内に住んでおり、一向は途中の飲食店で晩飯をとり探索を出して大沢の
帰宅を待ち受けた。大沢帰宅の報を受けて向かう途中、渋沢と新選組との
意見が異なったという。
自分が陸軍奉行の申し渡し(逮捕の宣告)を先にしてから捕縛するのが正当だという渋沢。
我々は大沢逮捕と共に、渋沢の護衛も兼ねているので、相手が抵抗して渋沢に万一の
事があれば任務を果たせない。まず新選組が大沢を縛り上げた後で正式の申し渡しを
したほうが安全だ、というのが新選組。
だがそんなに肩肘張っての理屈ばった議論ではなく、道々歩きながらの打ち合わせで、
結局は渋沢の面目を立てて正当な手順で行う事に決めたが、新選組のほうも
「渋沢君、大丈夫かな」と冗談半分に肩を叩いて笑っていた。
渋沢ももとは武州の農民の出である。親しげに肩を叩いたのは、立場的には
指揮者の土方ではないだろうか。
大沢宅に着くと、渋沢と土方の二人が中へ入り、本人は既に就寝していたらしく
眠そうな顔で出て来た。渋沢が陸軍奉行の代理で国事犯として逮捕する旨を
宣言すると抵抗もなく、まず両刀を取り上げた後で外で待機していた新選組隊士が
ドヤドヤと乗り込み縛り上げ、大沢の身柄は新選組から奉行所に渡され、後に
兵庫に送られる。危惧したほどの事は何もなかった。
この後渋沢はパリ万国博に渡航し、商業の才で明治の財界王となっていくが、
新選組副長と並んで捕り物に行った日があったのだから、不思議なものである。


46. 金持ちのコネで出世といわれる山崎 ..04/18(Sun) 22:57[46]

勇の最も愛する部下、ともいわれた監察の山崎烝。京の壬生村に住んで妻帯し、
新選組にも相当古くからいた、弟かといわれる山崎林五郎も後に隊士に加わった、
とまでいう割りには、役目柄か山崎烝の個人的な話は殆ど残されていない。
八木為三郎の談話としては、道場では長巻を使い稽古していたが、
余りハキハキした口をきく人ではなかった、との印象になっている。
大坂(阪)出身で土地の地理に詳しく、実家が医者の商売柄、大坂財界の金持ちの事情に
通じているので、幹部を案内して隊の資金調達に役立っており、八木家当主の
源之丞に、山崎が、また大坂へ一稼ぎに行ってくると言い、平隊士たちは
「山崎助勤は大坂の金蔵から生まれたようなものだ。いい芸を持っている」と
して、その為に上から重用されたのだ、などと言っていたという。
監察の仕事は何をやっているのか見えにくく、山崎のほうでも、
そう思いたいなら思わせておいた、という所だろうか。


47. 土方の変わった特技 ..04/18(Sun) 23:00[47]

多摩の郷里には、歳三は呉服屋で奉公したことがあるためか、ハサミの使い方が
とても上手だった、と伝わっている。
また、餅つきの時には、つく合間に杵を器用にまわしたり、ひょうきんな
パフォーマンスを混ぜて皆を笑わせていたという。
小説でカッコよく描かれるほど、剣の達人らしき腕前は記録には見えず、
自分では宇都宮で兵卒を斬った事ぐらいしか確かではないが、ある捕り物の時に、
剣を持った相手に石を投げつけ、ひるんだ隙に自分の羽織を相手の首に巻きつけて、
そのまま締め落とし生け捕りにした、との話が残っている。


48. 近藤、彦五郎の度胸に唖然 ..04/18(Sun) 23:06[48]

日野宿名主の佐藤彦五郎は非常に剛毅な人物で、名主の業績の他にも、
近在に名だたる剣豪だった。
日野農兵隊を結成して一揆鎮圧に出動したり、寺の幽霊退治を頼まれたり、
多摩一帯の天然理心流の留守を預かる彦五郎らに、江戸の剣客某が挑戦を
申し入れて来た時には、「売られたものを買わぬは日野連の名折れ」と、
井上松五郎や宮川信吉ら剣士七人の姓名書を送って手合わせを承諾したら、
相手が恐れをなし中止になった、など、武勇伝にも事欠かない。
富裕な佐藤家に、年貢金狙いの押し借りが来た時、彦五郎は在宅だったが、
妻のおのぶが「あなたが出ると必ず剣闘騒ぎになりますから」と
夫を止めて代わりに応対に出たという。
ある時、代官から手配中の無頼の浪人十二人の押し借り強盗団が八王子宿の
壺伊勢屋に宿泊した。彦五郎は討手の命令を受けて快諾し、近藤門下の
剣客六名と岡っ引一人を連れ、作戦を整え、鉢金・鎖帷子の武装も勇ましく
深夜を待って伊勢屋を襲撃した。
彦五郎自身は敵と闘いながら刀が鴨居に切り込み、しまったと思った時に
鉄砲でズドンと撃たれたが、幸い顔が熱い、と感じただけですぐ近くを
かすったのみだった。その後に敵を斬り倒す時、さらに一発射たれたが外れた。
暗い屋内の戦闘であり、賊徒に多くの死傷者を出して捕縛、あるいは逃亡と
撃退に成功したが、味方にも二人の死者を出し、彦五郎も手厚く追悼している。
この時のことを、後日、関東に帰っていた時の近藤勇に話したところ、近藤は、
「鉄砲玉と刀の打ち合いはあぶないあぶない、私もまだそれはやらぬ」と
驚いていたという。
新選組の在京中、彦五郎にも上洛を望まれたのだが立場上断念。
もし新選組に参加していたら、義弟の歳三は頭が上がらなかった事だろう。


N E X T B A C K




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