49. おのぶ立つ、母の愛は強し ..04/18(Sun) 23:10[49]

甲陽鎮撫隊が敗走した時、日野名主ながら春日隊を結成して加わった
佐藤彦五郎の一家も、西軍の襲来に備えて家族がバラバラになり、
知人縁戚の家に避難する事となった。
長男の源之助は、折悪しく疥癬で足を患っており歩くのもやっとの病み上がりで、
小宮村栗の須の井上忠左衛門宅に逃げていたが、その家の養子錠之助と共に
官軍兵に追われて捕まってしまった。
八王子宿へ連行され近藤、土方との関係、父彦五郎のゆくえや武器の隠し場所、
近藤勇門人は一帯に何人いるかと執拗に尋問を受けたが、知る限りの事は答えたものの
父のゆくえは知らないので答えようがない。もう殺されるものと覚悟したところ
取調べに土佐の板垣退助が出てきて、たとえ父の所在を知っていても答えぬのが
孝行であろうから許す、親を大切にせよと言われ釈放された。
彦五郎・のぶ夫妻は末娘を連れ、危機一髪の難を逃れて大久野村羽生家に潜伏していたが、
源之助逮捕の知らせを聞くと、のぶは突如立ち上がって帯を締めなおし身支度をするなり、
血相を変えて外に出ようとしている。彦五郎がどこへ行くかと咎めると、
「源之助は病後の身で、命も危ない。私がこれから名乗り出て助けます」という。
彦五郎は、官軍もそう来るだろうと待ち構えているのだから決して出てはならん、と
諭して止めたという。源之助は後でこの話を聞いて母の有難さに泣いた。


50. 近藤、水戸藩に激怒 ..04/19(Mon) 11:42[50]

慶応三年十二月十三日。前将軍慶喜はすでに前日、京都を去り大坂へ下っていた。
留守となった京都二条城の警護を会津・桑名藩と共に新選組が幕閣から命じられ
残っていたが、水戸藩も、慶喜公から直接任命され二条城にあった。
水戸の家老大場主膳正の前に、骨相たくましき壮士がつかつかとやって来て、
近藤勇と名乗り、水戸藩も大切な任務を仰せ付けられたとの事、自分も守衛を
任された者ですので宜しくと挨拶した。
ところが大場は挨拶すらせず、慶喜からは水戸藩がじきじきに二条城の留守警備を
任されたのであり、他の人数が必要との命令は受けていないし、貴殿の加勢は不要
だと答える。近藤は声を高くして、二条城の留守は公辺の安危に関わる重要な任務
であるから、新選組や会津、桑名と力を合わせ「固きが上にも固く」守るのが
当然であり、既に自分達も命令を受け及ばずながら水戸藩の指揮につき共に一命を
捨てる覚悟であるからご承諾頂きたい、と言った。
水戸藩は自分達だけでよく一人も他人の力を借りるつもりはない、一刻も早く城を出る
ようにとあくまで突っぱね、近藤は憤激し壮烈な様相で恐ろしげに席を蹴った。
その時の顔は後年も目に浮かぶ程で、その志は「憐れむべき」だが、新選組は幕府あるを
知り朝廷あるを知らぬので城中に置いても益なくして害あるのみと思い拒絶したという。
この争いを知った幕閣では永井尚志も苦慮し、榎本対馬守も「近藤達を留めておけば
力になるのに」と水戸藩へ申し入れたのだが、功を奏さなかった。
同日新選組には幕府内の隊名変更として「新遊撃隊 御雇」の新名称が申し渡されたが、
「新遊撃隊の名を当組御断り申し上げ、元の新選組を名乗る」と島田魁が記している。
紀州藩から、天満屋事件で死んだ宮川信吉の香典が贈られた日でもあった。
鳥羽伏見戦後の徳川御三家がどちらについたか、は明らかである。


51. 源さんの手紙 ..04/19(Mon) 14:38[51]

慶応元年、新選組は大坂屯所万福寺にも隊士を駐留させていた。
将軍再上洛を控え、将軍襲撃事件が画策されるなど京大坂の情勢も
不穏であったが、井上源三郎も大坂の屯所にいると聞き、千人同心の
役目で再び関西入りしていた実兄松五郎が訪問したが、京都に行って
いたため不在で会えなかった。七月一日に、源三郎から手紙を書いている。
「御面会も仕らづまことに残年二而候」

その後九月二十二日になって再び松五郎に手紙を送っている。
・松五郎の妻が病気と伺い、驚いた。色々難渋されているとの事。
 ずっとご無沙汰していて申し訳ありませんでした。
・京都では、先生始め、土方、沖田、永倉、武田、藤堂、斎藤、
その他一同無事に勤めています。
・将軍様が上京あそばされ、「誠ニ京都もしつかに御座候」。
将軍様の宮中参内は二十一日だそうで、二十三、四日には
大坂へ下られると伺っています。
・長州・周防はいずれ討つ事になるでしょう。(長州征伐)
・関東でも豊作だと伺っています。
・佐藤氏や父上、一家、河原所の親類、みんな別条ないそうで幸いです。
先だっては土方鍵之助様を遣わせて頂き有り難うございます。

「武田」は「原田」ではないのかと思うところだが、松五郎と武田に
親交があったのだろうか。二通とも余り上手な文面ではないが、
知人の名を色々と挙げ、「関東の豊作」も添えているところに
素朴な人柄を思わせる。


52. 沖田の最後の手紙 ..04/23(Fri) 11:25[52]

現存する沖田総司最後の手紙は、慶応三年十一月十二日発信、近藤勇の長兄へ
宛てたものである。以下意訳。

「向寒の折ますますご勇猛の事とお慶び申し上げます。まずは
土方、井上両氏も、(関東隊士募集の)道中滞りなく当月三日に
帰局しましたのでご休意下さい。
さて、その節はご尊書をお送り下さり、有り難く拝見致しました。
拙者も老先生病気につき、ぜひとも東下するつもりでしたが、
(自分自身が)病気のため、希望がかないませんでした。
しかしこのごろは日増しに快方に向かい、この分ならもはや
大丈夫だと思いますので、はばかりながらご安意下さい。
なおまた、先生のことは万端宜しくお願い申し上げます。
まずは近況まで、あとは拝顔の上、万々申し上げます。

十一月十二日                沖田総司
  宮川音五郎様

尚々、時分柄、寒気にはお気をつけ下さい。
何よりの味噌漬けを下さり有り難く存じます。
ご一統さまへも宜しくお伝え下さるようお願い致します。」

多摩の人達にも発病を知られ心配されていた沖田が、自身の病気を認めた
唯一の文書である。老先生、というのは近藤周斎の事で、実はこの文を
書いた時にはすでに江戸で死去していた。まだ知らなかったのであろう。
近藤、土方、井上は周斎の存命中に帰郷の機会を得ているのだが、
沖田だけはついに恩師の見舞いはかなわなかったのである。
贈られた「何よりの」味噌漬けに喜んだ沖田だが、もちろんその後
「もはや大丈夫」というまでに回復する事はなかった。


53. 十五で死ぬか田村銀之助 ..05/10(Mon) 01:58[53]

新選組末期の慶応三年に兄達と入隊した最年少の田村銀之助。
後年、史談会速記録に談話を残した。

慶応四年数え十四歳の時、流山を脱出して舟で銚子へ逃れ、霞ヶ浦脇を経て板子、
陸路に変えて平方、棚倉、矢吹、長沼から会津へ着き勢至堂、三代から若松へと至る。
「私などはまるで少年で役に立たないものですから会津にただ遊んでおったような
具合です」と正直に回顧している。
その後、会津の勝軍山の敗戦の報で年少者はすぐ仙台へ行けという指示を受け、
足を痛めたり戦時中で殺気だった農民たちに遭遇し、情報の錯綜で曲折を経たものの
どうやら無事に軍艦に乗船して蝦夷地への渡航に加わった。

蝦夷で初めて川汲峠の戦闘に参加、松前攻略の時には小銃一挺を見つけて二、三発
撃ったが、体につり合わず苦労していた所、松平太郎が来て、「それを貸せ」と
持っていってしまった。その後も従軍し、幕府脱走軍が勝利して五稜郭に凱旋した後は、
少年兵数名は「修学の目的で」箱館に設けられた教師館に転居し、フランス人ブリュネや
日本人通訳の指導下にいたという。翌明治二年春に官軍の再攻撃が始まり仏人教師達も退去し、
銀之助は五稜郭籠城の為に残り銃を持って出戦した後は、城内で養父(と本人は語る)
春日左衛門や伊庭八郎ら、重傷者の最期を看取った、と語る。

いよいよ敗北が迫った時に、「田村、お前が一番年が若いようである。
今戦争に負けて残念な次第であるが、お前はまず世に出て生命をまっとうした
ほうが良かろう」と大鳥圭介が年少の田村に脱出する事を諭した。ところが
銀之助は、「十五で命が惜しければ五十でも惜しい。五十で惜しければ
七十、八十でも惜しいのです。」といい、自分も武士の家に生まれた者で
あるから皆さんと一緒に立て籠もった以上は死して花を咲かせる覚悟は
出来ていると答え、「誠に田村お前は偉い」といって大鳥が盃をくれた。
榎本武揚からは、それ以前から度々同様の勧告をされていたという。
銀之助は、土方歳三にも目をかけられたと言っていたらしく、少年の目から見た
当時の錚々たる有名人達から可愛がられた、という事を誇りに思っていたであろう。

しかし、敗戦降伏後は「学術修業の為」と年少の理由をもって先に謹慎を解かれ、
大正十三(1924)年まで存命。生きよと望んだ大人達のおかげで、
十五でも五十でも死なずに済んだのである。


54. 十五で死す玉置良三 ..05/09(Sun) 22:21[54]

新選組の末期に入隊した年少隊士の中に、鳥羽伏見の後江戸に帰還し流山以後も
従軍した玉置良三がいる。会津の敗走を経て蝦夷に渡航し、土方附人数に入っている。
しかし蝦夷地の厳冬をついにもちこたえられる事はなく明治二年三月箱館にて病死。
郷里を離れたまま、十五歳の短い生涯を終える。
箱館戦に参加した島田魁、中島登、横倉甚五郎とも、名簿に玉置の名を残している。
一説には、沖田総司と同じく労咳の病という。


55. ふしぎな美男隊士、山野八十八 ..05/09(Sun) 23:11[55]

子母澤寛の作で有名な「隊中美男五人衆」の一人に挙げられる山野八十八。
永倉新八の手記では、文久三年八月頃には永倉、斎藤一、平山五郎、中村金吾と
山野が四条堀川西の米屋に入った押し込み強盗を撃退したと残し、隻眼の平山との
稽古では、皆が不得手とする平山への側面からの攻撃を山野だけは難なく打ち込み
「不思議な剣だ」と評された、といい早い時期からの入隊を思わせるのだが、
それほどの使い手というわりには池田屋事件の出動には記録がなく、元治元年
十一月の行軍録で沖田総司の一番組に属していた事が確認される。
壬生にいた頃は色白で愛嬌がありニコニコしていたという。壬生にあった水茶屋
「やまと屋」の娘が評判の美女で、新選組隊士たちが彼女を射止めようとしたが
女将の八重がしっかり者で男たちを近寄せない。ところがこの娘が山野に惚れて
相愛となり、女将も山野ならと娘との仲を許した。まわりの者は山野を見かけると
「やまと屋へ行くんでしょう」と冷やかし、近藤勇まで「どうだ山野、わしも
やまと屋へ連れていかんか」とからかったといわれるほど。やがて二人の間に
女の子が生まれたが、山野は履歴は長いが幕臣取立の名簿でも平同士であり、
その後は戊辰戦争となり箱館まで従軍しているが、上役に選ばれた形跡がない。
穏和な人柄で出世には無縁でも淡々としていたのか、長となって部下を率いる
力がなかったのか。しかし美男五人衆の中ではただ一人最後まで戦った新選組隊士である。
その後は京都に戻ったが「やまと屋」は既に行方がわからず、菊浜小学校の使丁(小使)に
なって働いたが、祗園の芸妓になっていた実の娘が山野を探し出して親子再会がかない、
娘にひきとられた好々爺の晩年を過ごし、同志の供養をしていたという。
終わりよければ全てよし、という人生であろうか。


56. 恩人佐藤彦五郎のもとに追悼の意 ..05/13(Thu) 22:05[56]

日野の佐藤彦五郎一家に伝わる話。
甲州戦争敗戦の後に離散した後、江戸の近藤勇、土方歳三のもとへ
単身面会に来た彦五郎から事情を聞き、長男源之助が逮捕されては
刀も取り上げられたろう気の毒にと土方が葵御紋康継を渡した。
その後、近藤と土方はそれぞれ幕臣の大久保一翁、勝海舟に書簡を送り、
恩義ある日野佐藤家の安泰について何としても朝廷寛典の処置を賜るようにと
懇願し、官軍大本営の西郷から赦免の達しがきて数十日ぶりに家族一同の
帰宅がかなったという。
しかしその間に、近藤勇は四月二十五日、板橋において斬首の処刑を受け、
五月の彰義隊敗走の脱出兵が埼玉の飯能で追撃を受ける砲声が遥か
遠方から日野まで聞こえたという、不安のうちに戊辰の明治元年が暮れた。
やがて翌年、土方小姓の市村鉄之助少年が七月の初めにひっそりと
佐藤邸を訪問し、遺影と共に遠く箱館の地で戦死するまでの戦況を語られる
事になるのである。その後、沢忠助によって仙台伊達侯より歳三に拝領の
水色の下げ緒がもたらされ、先の康継に巻いて共に遺品とした。
その後も、斎藤一諾斎、立川主税、中島登、松本捨助など、日野佐藤家を
局長副長を偲ぶ拠り所として交流した元隊士は多い。

彦五郎の追悼吟

慶応四年五月板橋駅において官軍の為に断刀にかけられし
近藤勇をいたみて

  鬼百合や花なき夏を散りいそぐ      盛車

明治二つちのと巳年五月十一日函館一本木てふ所にて
義弟土方歳三の戦死せしを人々かなしみて倭唐土歌を手向て
梅雨月と題せし一巻を彼の地より携登りし立川氏の志を感し
且は軍中の咄を聞きて

  待つ甲斐もなくてきえけり梅雨の月   盛車


N E X T B A C K




新選組屯所へ戻る




このページは幕末維新新選組の著作物です。転載転用を禁じます。
Copyright©All Rights Reserved by Bakumatuisin Sinsengumi