57. 小姓市村鉄之助 ..05/13(Thu) 22:11[57]

明治二年七月初旬の黄昏時、日野宿佐藤家の前に一人の乞食小僧が古手拭をかぶり、
ござを蓑代わりに着て、家の中を窺っている。胡散臭いので追い払おうと家人が
声をかけると、腰をかがめて台所土間に入ってきて、低い声で仔細ありげに
御主人様にお目にかかりたい……と申し出た。中庭にまわらせて彦五郎が会うと、
汚い胴締めから、写真一枚と半紙を二寸ばかりに切った小切紙を取り出した。
見れば洋装断髪の土方歳三の写真、紙の上には見覚えのある歳三の筆跡による
「使の者の身の上頼上候  義豊」という文字があった。
驚いた彦五郎は、とにかく委細は後でと入浴させ着替えをさせて居間に招き
襖を締め切った中で少年の話を聞いた。

―――私は土方隊長の小姓を勤めていました市村鉄之助と申す者です。
去る五月五日箱館五稜郭内の一室で隊長が私に云われるに、
「今日はその方に大切なる用事を命ずる。それはこれから、江戸の少し西に当たる
日野宿佐藤彦五郎という家へ落ちて行き、これまでの戦況をくわしく申し伝える
役目である。今日箱館港に入ったかの外国船が、二三日中に横浜へ出帆すると
聞いたので船長に依頼しておいた。この写真と書付を肌身につけ、乗船して
佐藤へ持って行け。なお金子を二分金五十両渡す。日暮も近い、時刻も良いから
すぐに出立して、船に乗り込みその出帆を待っていろ」と。私は、
「それは嫌です。ここで討死の覚悟を決めておりますから、誰かほかの者に
その事をお命じ下さい」
と云いました。すると隊長は大変にお怒りになって、
「わが命令に従わざれば今討ち果たすぞ」
と、いつもお怒りになる時と同じ恐ろしい権幕、私はそれでは仕方ないと断念して、
「では日野へ参ります」
と申しました。隊長もにっこり笑みを含まれて、
「日野の佐藤は、必ずその方の身の上を面倒見てくれる。途中気をつけて行けよ」
と云われました。案内人に連れられ、城の外へ出て振り返りますと、城門の小窓から
見送っている人が遠く見えました。隊長であったろうと思います。(略)
十一日の正午頃、隊長は一本木という海岸で、戦死されてしまったということを
この船中で聞きました。―――

これは佐藤家で後日まとめて書かれた文面であり、市村の話の声は途絶えがち、
取り囲んで聞いていた家族の者も、一緒に涙を流しながらの語らいだった。
その後歳三の遺言通り、佐藤家では三年の間市村を食客として住まわせ学問と剣も
教えてやり、先の五十両を両替し、価値の変動で減額不足した分を補った上に
五十円の餞別を足して日野の中西吉右衛門を付き添わせ故郷の美濃大垣に帰らせた。
歳三の遺筆となった小切紙を、姉おのぶは針箱にしまって、長い間とっておいたという。


58. 天野八郎を襲った原田と永倉 ..01/24(Mon) 23:00[58]

慶応四年春の江戸。幕臣有志は上野寛永寺に陣取り、徳川家挽回のため
彰義隊を結成していった。
その中で中心人物となった副頭取の天野八郎。
ある日、同志との会合に出かけた途中、二人の武士に問答無用で
斬りつけられた。天野はからくも初太刀をかわしたが、それとみるや
二人もよほどの修羅場をくぐってきた使い手とみえ、一方が敵に対して
楯になりながら斬り込み、次の者がさらに踊り込むという、
実戦に威力をもつ必殺の構えにかかる。
天野は居合の型で敵と向かい合うが、どうして自分が狙われるのか
理解できず、「徳川家の恩顧に感ずる天野八郎と申す。
お手前方はいかなる筋の方々か?」と問いただした。
すると相手の二人は驚いて剣をおさめ、新選組の原田左之助と
永倉新八だと名乗った。彼らは官軍側の密偵の後を追っていたのだが、
ねらっている途中で敵と天野とが偶然入れ替わったのに気づかず
襲ったのだと言って過ちを詫びた。
天野はこだわらず、逆に一席の酒を設けて彼らと意気投合したという。
この時の縁で、後に永倉から離れ江戸に戻った原田が、
五月の上野戦争間近になって彰義隊に参加する気持ちになったと
いうのであるが、もちろん真偽は定かではない。


59. 土方、なわばり荒らしを怒る ..01/24(Mon) 18:26[59]

前記と同じ慶応四年春、彰義隊にまつわる逸話。
彰義隊はもともと、前将軍徳川慶喜の側近である一橋家の家臣らが、主君の
失地回復をはかって結成したのが始まりであるが、次第に身分素性を
問わずに同志を募り人数がふくれあがり意見が分かれ、最初の主導者である
渋沢成一郎らは、逆に、新規参入の天野八郎の勢力により彰義隊から追われた。
江戸を脱した渋沢は「振武軍」という新たな軍を作り、自分の出身地でもある武州の
農村地帯には血気盛んな若者が多いはずと目をつけ、同志を配って兵の募集に向かう。
渋沢自身は南多摩の府中へ出向き、
「徳川家のご挽回のため義挙に応じた者は働きに応じて恩賞を授ける」と
しきりにうまい話と資金を巻いては付近の農兵を募った。
しかしこれを聞きつけたのがもと京都新選組の副長土方歳三であり、
渋沢の行動に待ったをかけた。
南多摩の一帯はご存知の通り近藤、土方ら新選組にとっては故郷であり
まさに地元、なわばりといってもよい地域である。兵士を集めたいのは
土方にとっても同じ目的であり、それをよそ者が来て勝手なまねをされては
困る、という意味で、言葉少なながらジッとにらみをきかせる。
渋沢も、内藤という旗本が甲州進軍の兵を多摩で募っているという話を
耳にしたことはあったのだがそれが有名な新選組の土方とはつゆ知らず、
得意の弁舌で反論して切り抜けようとしたが、迫力負けして土方の顔を
直視することも出来なかった。ビビッてしまったのである。
結局、渋沢は「気がつかない事をしました」と詫びて南多摩を去り、
田無から西方面へ募集の地を移して事なきを得た。
伝承ではこれが四月で甲州戦争も終わって近藤の死後のことになっているようだが、
その頃の土方は流山から北関東に赴いていくので時期的なずれがあると思われる。
この渋沢成一郎は、後に箱館の戦まで参加している。かつての京都で土方と共に
捕縛活動をした事のある渋沢栄一とはいとこ同士。


60. 近藤勇晒し首につけられた捨札の罪状 ..01/24(Mon) 21:46[60]


        近藤 勇

右之者 元来浮浪の徒ニ有之
初在京新撰組之頭を勤め後江戸住居いたし
大久保大和ト更名し甲州并下総国流山ニおゐて
官軍へ手向いたし或ハ徳川の内令を交々抔と偽り唱
不容易企ニ及候所 上ハ朝敵下ハ徳川之名を偽り候次第
其罪数多にいとまあらす仍而死刑ニ行ひ梟首をしむるもの也

  四月
右板橋宿へ梟首三日晒らしの後塩漬ニいたし京都へ送り候由。
辰の三十六歳と申事。     (戊辰間新聞)




賊長近藤勇ノ首級関東ヨリ至ル。
三条河原ニ於テ之ヲ梟スル事三日、
其罪悪ヲ掲レ示ス事左ノ如シ。

        元新選組近藤勇事
                大 和

此モノ凶悪ノ罪迹アマタ有ノ上
甲州勝沼 武州流山 両所ニオヰテ
官軍ニ敵対セシ段大逆タルニヨツテ
如此令梟首モノ也

    閏四月      (太政官日誌)


61. 近藤勇の斬首はやり歌 ..01/24(Mon) 22:05[61]

近藤勇の板橋斬首の後、その首は保存のため酒(或いは塩)に漬けられ
板橋の刑場から京の都へ送られ三条河原にさらしものとなった。
この他、大坂千日前でもさらされたともいう。
江戸にいて近藤、土方と親しく対面し、土方が鳥羽伏見の様子を
「すでに刀槍で戦争はできない」と語った相手という事で知られる
依田学海は、京都でその近藤の晒し首を見て、「面色生けるがごとし」
と、生前そのままのようであり、談笑した時の事を思い起こして
強い嘆きを覚えたと記録している。
京坂地方では、近藤勇は関東で官軍大総督の有栖川宮熾仁親王の
陣地を襲撃して錦の御旗を奪い取ろうとして薩摩藩に生け捕りに
された等という話にまで発展させられていた。
近藤勇ほどの猛者ならそれぐらいの事はしかねない、という
恐れが生んだ噂であろう。
慶応四年、閏四月十日の京坂日誌畧という記録には、当時早くも
流行していた「宮さん宮さん」ことトコトンヤレ節を替え歌にして
近藤の事を市中で歌っていた事が書き残されている。

 三条河原の下で群集するのは なんじゃいな
   トコトンヤレ トンヤレナ
 あれは朝敵近藤勇の首 しらないか
   トコトンヤレ トンヤレナ


62. 土方歳三の説く道義 ..01/24(Mon) 22:47[62]

会津の戦地から脱して仙台に姿を現した土方歳三は、九月三日の軍議で
一度は連盟の総督にと榎本武揚らから推薦されながら、
「たとえ大藩の重役であっても軍令違反とあれば
この歳三が斬って捨てなければならぬ。
将兵の生殺与奪の権利まで総督に一任できると
いうことならば引き受けましょう」と規律統一の厳正を唱え、
諸藩士が結局それは出来かねると渋ったために自ら席を蹴って立った。
その後の十二日、仙台城に榎本と登城した土方は、仙台藩の執政
大條孫三郎・遠藤文七郎に面会した。榎本の説得に続いて土方が
語った言葉が次のように記録されている。

土方歳三またかたわらより口開き、徐かに謝罪降伏の不利なるを
説き、かつ曰く、

「利不利はしばらくおき、弟を以て兄を討ち、臣を以て君を征す。
彜倫(いりん)地に堕ちて、綱常まったく廃る。かくのごとくにして
いずくんぞ国家の大政を執るを得んや。いやしくも武士の道を解し、
聖人の教えを知るものは彼薩長の徒にくみすべからずと信ず。
貴藩の見るところ、はたしていかが。」

(有利か不利かは別問題として、薩長が幕府を今までの卑怯な
やり方で討ち果たそうとするのは、まるで弟が兄を討ち、
臣下が主君を征する、まさに下克上であり順逆を犯した事になります。
変わらざるはずの倫理が地に落ちて、人の守るべき大きな道徳は
まったくすたれてしまう。このような事でどうして国家の大政を
指導することなどできましょうか。
いやしくも武士の道を理解し、孔子孟子など聖人の教えを習って
きたまっとうな人間ならば、あの薩長などに屈服して手を組む
べきではないと信じます。貴方の藩はこの事をどう思われますか。)

損得抜きにして道義的に、「薩長」になど降参すべきではないのだ、と
いう土方の熱弁も、相手側の遠藤には「論ずるに足らず」と軽蔑されて
しまっているが、この日仙台藩主は榎本、土方に拝謁を許して
労っており、土方には水色の下げ緒を与えている。
しかし、仙台藩はすでに会津戦争でも多大の犠牲を出しており、
藩論は一変して間もなく官軍へ恭順する事になった。


63. 土方歳三の漢詩 ..02/09(Wed) 00:33[63]

才名徳望重宇裏

梅樹竹林白歳間

丈夫気絶応如此

独鶴高翔萬仭山

 賀橋本君生一子 義豊書

慶応二年郷里の橋本道助の長男誕生に際して贈られた祝いの七言絶句。
男子として才名徳望が重なりすくすくと成長して必ずや
群を抜いて立派な人になるでしょうの意。


N E X T B A C K




新選組屯所へ戻る




このページは幕末維新新選組の著作物です。転載転用を禁じます。
Copyright©All Rights Reserved by Bakumatuisin Sinsengumi