扶桑念流 |
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安永元年現在の埼玉県熊谷市箱田町に当たる。武州埼玉郡箱田村 |
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秋山善太郎の子として生まれ、名を正武といい、号を雷角斎、閉鴎 |
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雲領などといった。 |
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父善太郎は鹿島神道流剣術の使い手であったことから、要助は幼い |
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頃からその手ほどきを受け、江戸へ出て神道無念流の岡田十松吉利 |
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に師事して、天性の素質が一気に開花した。 |
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文化八年郷里の箱田に道場を開き、自ら「扶桑念流」称して、武州 |
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飯能にも道場を設けて「扶桑館」と名付けた。その後、江戸や高崎 |
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伊勢崎等にも道場を開いた。さらに、佐野においても撃剣指導に当 |
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たった。後年、直心影流の洒井良佑と手合わせをして敗れたが、一言 |
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弁明もせず、ただ洒井の技倆を讃じた態度が剣客としての名を馳せた。 |
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天保四年八年二十五日、六十二歳で没す。 |
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墓は栃木県佐野市土蔵町の興福寺にある。 |
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唯心一刀流 |
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周防徳山藩士浅見甚助長男栄三郎は、寛政十年七月十八日の生まれで |
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名は正欽、武芸は唯心一刀流の達人。学問は藩の顕学役藍泉、長沼采石 |
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に学んだ。文政二年一刀流指南役棟居順平の添役を命じられ、学館鳴鳳 |
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館で詩文も教えた。元治元年禁門の変後、藩内に幕府恭順派の俗論が |
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台頭して勤王派を粛清した。八月十二日栄三郎も家囚を申し渡された。 |
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慶応元年藩論が勤王に回復すると再び一刀流師範に復した。廃藩後は |
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家に子弟を集めて教え、明治十五年十二月十五日八十五歳で没した。 |
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栄三郎の弟修次正沢は文政六年に生まれ、やはり学問、剣術共に優れて |
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藩主の小姓と世子の待講を兼ねた。明治元年興譲館助教から学館最後の |
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学長を勤めて、明治十七年一月十八日六十一歳の生涯を閉じた。 |
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墓はともに興元寺にある。 |
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大島流 |
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周防徳山藩士浅見栄三郎長男。天保四年十月十五日生まれ。文武両道に |
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秀で特に槍を得意とした。安政元年学館興譲館で教えるかたわら大島流 |
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槍術指南役を勤めた。文久二年藩主に従って上府、ついで上京し翌三年 |
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親兵に選ばれた。四月の岩清水八幡宮行幸では三条西季知の警固をした |
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元治元年禁門の変後藩論一変、八月十二日勤王派同志と浜崎の獄に捕ら |
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えられた。慶応元年一月藩吏は安之丞たちの毒殺に失敗し、十四日新宮 |
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浜に連れ出して扼殺、屍を砂に隠した。ときに三十三歳である。墓は、 |
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興元寺。栄三郎の二男次郎彦は天保十三年六月十四日に生まれ、同藩児 |
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玉半九郎の養子となった。体躯堂々、学剣抜群、文久二年上京して周施 |
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方を命じられた。元治元年俗論巨魁富岡源次郎の斬奸を企てて失敗した。 |
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八月十二日朝、数人の壮士が来訪、背後からいきなり斬られて絶命した。 |
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二十三歳。福田寺に葬られた。 |
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小野派一刀流 |
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文政五年、中西忠兵衛子正の次男として生まれ、称を兜七郎といった。 |
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のちに浅利又七郎義信の養子となり、又七郎と称した。 |
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実父子正並びに義父信に剣を学び、剣の奥義を極めて「入神の剣技」と |
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謳われた達人である。 |
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維新の後、静岡に移住して、駿府藩主の徳川家達の剣術指南役を努めた。 |
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廃藩の後東京に帰り、明治十四年山岡鉄舟の推挙によって、有栖川家に |
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出仕し撃剣御用掛になって若宮威仁親王の剣術指導にあたった。五十歳を |
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過ぎてからの義明は、山岡鉄舟の春風館行事に出席して検証役を務め |
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たりして、悠々自適生活の生活を送った。 |
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文久三年、山岡鉄舟が義明に挑み「参った」と言わなかったのは有名。 |
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以後、義明を師と仰いで修行。夢想剣の極意を得た。明治二十七年四月 |
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十六日、七十三歳で没した。法名を顕徳院恵炎日明居士と号す。 |
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小野派一刀流 |
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安永七年、下総松戸宿の農家に生まれ、少年時代は又七といい、家が貧し |
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かったので、毎日のように江戸へ出て、浅蜊を売って生計を立てていた。 |
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その帰途、下谷練堀町の中西道場に立寄り、剣術の稽古を見るのを楽しみに |
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していた。そんな光景を見ていた中西忠太子啓が内弟子にとりたてた。 |
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又七はみるみるうちに腕を上げ、並みいる先輩剣士たちを追い越して、 |
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中西道場の最高弟にのしあがった。若狭小浜藩主洒井修理大夫忠順のお声 |
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がかりによって、同藩江戸詰師範として出仕することになった。その時、 |
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初心忘れるべからずと誓って、浅蜊の虫偏を外して、浅利又七郎義信を |
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名乗ったと云われているが、これは講談師の虚構であるという。 |
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その内実は松戸二丁目の善照寺門前で米問屋を営む「糖屋」の鈴木源三郎の |
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手代としていて、主の道楽で剣術鍛錬の相手をしながら腕を上げた。 |
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そして江戸へ出て中西道場へ入門したいというのが筋立った又七郎の剣歴で |
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あるらしい。愛弟子の千葉周作に姪のかつを娶らせて、弟子とし、又七郎を |
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襲名させ、小浜藩の指南役も与え、浅利道場の主にした。しかし、組太刀の |
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改良問題で意見の衝突があって、周作は妻を伴なって浅利道場を去った。 |
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その後、中西忠兵衛子正の次男兜七郎を養子に迎え又七郎を襲名させ、中西 |
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道場を継承させた。嘉永六年二月二十一日、七十六歳で没した。浅草の |
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印慶寺に葬られたが、後に市ヶ谷の常楽寺との合併によって、新宿区原町の |
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常楽寺に改葬.一明院殿清山義信日照大居士と号す。 |
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方円流 |
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宝暦三年、小倉藩士松本才右衛門直常の五男として生まれ、魚住慎行の |
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養子となり、致士の後、祖母方の直を苗字とした。通称は円之輔、字を |
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士敬、号を方円斎鼎山といった。 |
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幼時より庭木に釘を投げて手裏剣の技を覚え、十五歳の時、小倉藩士 |
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浦野一歩斎に制剛流を学んで印可を与えられた。その後、槍、薙刀、棒 |
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体術、捕縛など十六流を極めて、天明二年、一流を創始した。 |
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師一歩斎の承認を得て、その名を「方円流」と名付けた。 |
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門人群れをなし、二千人を超えたと伝えられる。彼は死ぬまで愛用の |
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木刀を片時も手離すことはなかったという。弘化四年十月十日、老衰に |
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よって没した。行年九十五歳。西暦一八四七年十一月十七日のことである |
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直守一の名前は子の守身が如雲と号して継承す。 |
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野太刀自顕流 |
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薩摩・鹿児島城下高麗町の出身・諱は兼清。藩の剣術師家、薬丸半左衛門 |
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兼義の門弟となり、野太刀自顕流(別名は薬丸流)を学ぶ。この流派は、 |
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示現流と間違われることが多いが、兼義の父で剣聖と謳われた兼武が、 |
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創始したものである。 |
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安政五年、兄雄助とともに脱藩しようとするが発覚して幽閉される。 |
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その後、ひそかに江戸に出て、水戸藩の尊攘派と深く交わった。 |
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万延元年三月三日、次左衛門兄弟は水戸脱藩士の関鉄之助らと謀り、 |
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桜田門外で大老井伊直弼の襲撃を決行した。次左衛門は警護の不意を |
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ついて井伊大老の輿に迫り、輿中を刺突してから、大老を引きずり |
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出してその首級を挙げた。しかし、自身も重傷を負い、近くの三上藩 |
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の辻番所で屠腹して果てた。「岩かねも砕かざらめや もののふが国の為 |
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にと思い切る太刀」次左衛門の辞世には野太刀自顕流の神髄が顕れて |
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いる。享年二十三歳。 |
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直心影流 |
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寛政九年、備中新見藩に仕えていた種田流槍術の師範であった幾田伊真の |
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次男として生まれ、名を伊俊といった。父伊真は備中新見を去り、現在の |
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岡山県高粱市の備中松山に移り住んだ。右門は幼少より武を好み、父から |
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種田流槍術の手ほどきを受けた。江戸へ出て父の高弟村上左忠次に師事、 |
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印可を得て帰省。松山藩士赤羽永蔵伊清に直心影流を学んで極意を極めた |
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文化十三年、同国庭瀬藩主板倉越中守勝資家に仕えて六十石を給されたが |
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文政四年致仕。江戸へ出る途中、米子において鳥取藩主たちが相次いで |
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入門してきたために逗留。天保三年鳥取藩に召抱えられた。五人扶持から |
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二百石までのぼりつめた。米子から鳥取に移住。剣槍二術の指南に没頭した |
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弘化四年、長男の武之進伊載と西国、九州へ武者修行に赴く。安政五年四月 |
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二十三日(一八五八年六月四日)六十二歳で没した。 |
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北辰一刀流 |
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天保六年(一八三五年)常州志筑藩目付役鈴木木専右衛門忠明として生まれ |
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鈴木大蔵と称した。初め金子健四郎に師事して神道無念流を学び、のちに |
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江戸へ出て、深川佐賀町の北辰一刀流伊東精一に師事。師の没後、その娘 |
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ウメの入婿となり、道場を継承したと云われている。しかし、安政四、五年 |
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頃に認められた『玄武館出席大概』に列記される中に「道場持の部」として |
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その二番目に伊東誠一郎という名はあるが、伊東精一の名は欠落している。 |
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伊東精一もしくは伊東誠一郎が深川佐賀町に道場を構えていたのか「江戸 |
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切絵図」では確認がとれていない。伊東の実弟鈴木三樹三郎の娘婿である |
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小野圭次郎が書き残した「伯父伊東甲子太郎武明」に記された伊東誠一の |
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名が現在の諸書には、「玄武館出席大概」に認められた伊東誠一郎の名で |
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記されている。また伊東誠一郎の名は三百石の幕臣として、あらゆる名簿に |
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載っているのだが、同名異人ということになるであろうことは、文久三年 |
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十月十一日、目付から西丸徒頭再役。さらに慶応二年十二月二十八日御役 |
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御免、勤仕並寄寄合になっている。つまり、伊東精一の存在を確認する |
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ことができていないのである。それは千葉門下の伊東誠一郎にも当て嵌る |
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ともあれ、伊東道場の師範代中西登と内海次郎、実弟鈴木三樹三郎らを |
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従えて新選組に加盟上洛するも、近藤、土方らと袂を分ち、御陵衛士と |
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なって高台寺党を結成する。しかし、慶応三年十一月十八日(一八六七年 |
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十二月十三日)の京都油小路木津屋橋で、新選組の闇討ちに遭遇した。 |
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墓は東山戒光院にある。 |
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■ 隊士名鑑 ■ |
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心形刀流 |
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天保十五年、心形刀流八代目秀業の嫡男に生まれ、称を初め八郎治、名を |
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秀頴といった。父秀業が没した時、未だ十五歳であったことから養子秀俊 |
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が九代目を継ぎ、その養子となった。つまり、実父の秀業が養祖父という |
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ことになる。剣技のほどは「伊庭の小天狗」という異名をとったことからも |
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その腕前は偲ばれる。奥詰から遊撃隊に転じ、伏見戦争の後、請西藩主林 |
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忠崇らと箱根で戦い、左腕を失い「隻腕の美剣士」と呼ばれる。 |
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榎本艦隊の三嘉保で脱走するが暴風雨で遭難。上総、江戸、横浜と潜伏後、 |
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英国船で箱館へ渡航。榎本の五稜郭政府の歩兵頭並になった。 |
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明治二年四月二十日の木古内戦で負傷。同五月十二日、五稜郭の陥落前に没し |
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箱館の山背泊に埋葬。墓は菩提寺の貞源寺にあり法名は秀頴院清誉是一居士。 |
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■ 佐幕人名鑑 ■ |
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鏡心明智流 |
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天保五年生まれで、名を美忠という。鏡心明智流四代桃井春蔵直正の門を |
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叩いて修行し、坂部大作、久保田晋蔵、兼松直廉とともに、桃井門下の |
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四天王と謳われた。慶応元年九月三日、銀座の料亭において天童藩士を |
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二人斬った事件は、一大センセーションを巻き起こし、上田馬之助の名を |
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天下に轟かせた。天童藩中島一郎と伊藤慎蔵は酔っていた。馬之助が二人 |
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の傍らに席を求めた。店の者が別席へ案内しようと気を利かせたところ、 |
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伊藤が罵言を吐いて、立ち上がり様に斬りつけた。馬之助は止む無く抜き |
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合わせ、伊藤は首筋から頬にかけて斬られて即死。中島は腹から背への突 |
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傷が致命傷となって死んだ。馬之助は形ばかりの牢屋入りで事無きを得た |
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その後、宮内省や警視庁剣術師範を務め、明治二十三年四月一日に没す。 |
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片山流 |
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箸で生きた蝿をつまんだという伝説のある剣士は、防長二州で岩国の宇野金太郎 |
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重義ただ一人だ。直径一センチ足らずの椋ノ木の実を吊り下げ、刀で突き当てる |
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妙技も見せたという。生まれは文政十一年、父は吉川家臣山形旦蔵。同じく宇野 |
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正九郎の養子となった。初め剣を長谷川藤次郎に習い、十五歳の頃、片山流正統 |
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片山久豊の門に入った。弘化三年、学館養老館の剣術師範となる。嘉永元年岩国 |
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に来訪した島田虎之助に見込まれて東上し、浅草の道場で修行した。その後お玉 |
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ヶ池の千葉周作道場でも腕を磨いた。安政四年から諸国を武者修行して「岩国に |
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に錦帯橋と宇野あり」といわれるほど剣名が高まった。備後浅野家や遠州掛川藩 |
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からも剣術指南に招かれた。丈はあまり高くないが色白の美男子だったという。 |
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文久二年八月、突然病んで十九日三十九歳の生涯を閉じた。墓は普済寺にある。 |
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天然理心流 |
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弘化三年、漆原太郎治の長男として武州都筑郡上川井村に生まれた。名は保吉。 |
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祖父の権左衛門と父の太郎治は共に天然理心流の師範代を努め、近村の百姓に |
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剣術を教えていった。しかし、漆原家では肉親に対して、指南免許を授けること |
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はなかったといわれる。子が親の指導を受けることができても、免許を得ること |
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ができないから、外の師範から免許を得なければならなかったといわれる。 |
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倉之輔は、横田右馬之助から目録を授かったのが明治十六年九月のことだが、 |
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八月には十人の門人をかかえていたというから腕の凄さがうかがえる。 |
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漆原家は上川井村の名主をつとめて財力もあったことから、親子三代、門人から |
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金子をとったことがなかったという。大正十一年正月五日没。 |
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尚武院釈雙入道為範居士と号す。 |
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田宮流 |
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嘉永元年、紀州藩士遠藤新右衛門泰陳の次男として江戸で生まれ、 |
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幼称を竹松といい、後に勝助から新右衛門と改称した。名は泰通と |
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いい、字が子同で、号が古愚、鶴洲などといった。勝助は藩の儒官 |
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となり、高野長英、平山行蔵、渡辺崋山らと親交があり、蛮社の獄 |
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で弾圧された「尚歯会」の肝煎的存在であったといわれる。 |
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武術においては、田宮流西尾新左衛門に師事して奥義を極めた。 |
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槍、拳の術にもすぐれ、文武両道の達人として名をあげた。勝助は |
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江戸で一生を終えたが、藩の留守居物頭格として奥儒者をつとめ、 |
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その教えは、国を治め世を治めることを道としたもので、章句にこ |
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だわることはなかった。すべて実用を重んじたというように、勝助 |
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の剣もまた実戦に重きをなしたという。嘉永四年七月二十四日、 |
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六十三歳で没し、現在の新宿区四谷四丁目の東長寺に葬られた。 |
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小野派一刀流 |
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天保十年、一橋家の近習番大石捨次郎の長男として生まれ、姓は源で名を守親 |
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という。阿波の出身といわれるが、「文化武鑑」の文化十一年の「一橋大納言 |
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治済卿様御附衆」で御小姓衆の十二番目に、小石川たか匠丁、大石捨次郎と記 |
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されている。つまり、鍬次郎が生まれる二十五年も前から、江戸で一橋家に仕 |
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えていた。元治元年十月一日、新選組に入って上京し、「人斬り鍬次郎」の異名 |
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をとる。大石が血刀をふるった大きな事件としては、油小路で伊東甲子太郎を |
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殺害したことだろう。実弟大石造酒蔵が殺された時、土方歳三に仇討ちを止め |
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られ、その跡目相続問題に、近藤、土方が後押しをしたというが、鍬次郎が弟 |
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でなければこの話は成立しない。近藤の投降直後、江戸で脱走。明治三年十月 |
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十日、千住の小塚原で刑死した。 |
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■ 隊士名鑑 ■ |
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大石神影流 |
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寛政九年、柳河藩士大石太郎兵衛種行の長男として、現在の福岡県大牟田市 |
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大字宮部の筑後国三池郡宮部村に生まれた。進は称で後に七太夫、名は種次 |
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といい、隠居して武楽と号した。父種行は剣槍両術を極めて師範役であった |
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が、病弱だったことから、進は祖父種芳について愛洲陰流剣術と大島流槍術 |
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と大島流槍術を学んだ。文政八年六月十五日、父種行が五十四歳で没し、 |
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進は三十石の禄を継ぎ、柳河藩の剣槍師範役を賜った。天保四年、藩命に |
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よって江戸へ出た進は、自ら考案した五尺三寸の長竹刀に加えて、それまで |
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考えられなかった左片手突きという独自の剣法によって、江戸の撃剣群を |
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撃破して、剣名を全国に轟かせ、百石の軍役にのぼりつめた。文久三年 |
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十一月十九日、六十七歳で没し、大量院殿武観妙楽居士と号す。墓は大牟田 |
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市宮部吹上にある。 |
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神道無念流 |
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長州萩藩士太田要蔵長男。名は直方。天保十二年七月七日萩に生まれる。 |
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慶応元年御堀耕助と改名した。十八歳で江戸に出る。斎藤弥九郎の門に |
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入って練兵館の塾頭に進んだ。居合術が得意だった。文久二年世子毛利 |
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定広の近侍として上京、翌年中山忠光卿が大和挙兵に敗れて長州へ潜伏 |
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した時、その護衛を命じられた。元治元年、禁門の変に出撃、藤ノ森の |
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激戦で、「逃げる奴は斬るぞ」とひるむ味方を白刃を振るって叱咤した。 |
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帰国して御楯隊を創り総督となる。十二月高杉晋作が俗論討奸に決起の |
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際は反対して大口論となったが、翌年一月には共に俗論党を退けて藩論を |
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勤王に復した。慶応二年、幕長戦では芸州口参謀を勤め、九月の厳島休戦 |
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交渉にも臨んだ。明治二年兵制視察のため渡欧の途中肺を病む。帰国して |
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明治四年五月十三日防府三田尻で没した三十一歳。防府桑山に葬られた。 |
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野太刀自顕流 |
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薩摩・鹿児島城下高麗町出身。薩摩藩士樺山善之進の次子で、のち大山四郎助 |
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の養子となる。禄高百三十六石。格之助は少年時代に野太刀自顕流の始祖薬丸 |
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兼武の門弟となり、長じて高弟となった。当流の奥義中の奥義である槍止めを |
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極め、飛鳥のように飛びかかって相手の槍を打ち落としたという。 |
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鏡智院槍術の名主だった有村俊斎(のち海江田信義)が他流試合を申し込んで |
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きたとき、難なく勝った。三年後、猛稽古をした俊斎が再び挑んできたが、 |
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結果は同じだった。また江戸にあったとき、藤田東湖が斡旋して、神道無念流 |
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の斎藤塾で、塾頭と試合をした。格之助は防具も着けず小太刀でこれに臨み、 |
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立ち上がるや目にも止まらぬ早さで相手を撃ったと言う。 |
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明治になって綱良と称し、同七年、鹿児島県令となる。同十年、西南戦争で |
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西郷軍を支援した廉で斬首された。享年五十三歳。 |
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■ 幕末人名鑑 ■ |
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鏡心明智流 |
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土佐藩足軽。宜振。幕末に人斬り以蔵といわれた剣客。天保九年、土佐国 |
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土佐郡江ノ口村に生まれる。安政三年九月、江戸に出て桃井春蔵に入門、 |
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鏡心明智流を習う。帰国後、武市瑞山に従って四国、中国、九州へ剣術 |
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修行の遍歴に出る。途中、豊後岡藩の直指流指南、堀加治右衛門の道場に |
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以蔵一人が残り、翌年まで直指流の修行をつづける。直指流は山中平内 |
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重政が流祖。丹波国沓掛山中に住し、後に夢庵と号した。二代目の長谷川 |
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十郎左衛門紀隆より世に知られるところとなり、豊後岡藩に伝承された |
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古流である。のち勤王運動に加わり、多くの暗殺事件に関係した。本間 |
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精一郎、宇郷玄蕃を暗殺し、香川肇、池内大学を斬っている。捕まえられ |
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て高知に送り返され、尋問によって井上佐市郎の殺害を自白し、慶応元年 |
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五月、斬首された。二十八歳。墓は高知市薊野真宗寺山にある。 |
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■ 幕末人名鑑 ■ |
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神道無念流 |
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天保六年、尾張藩山下正吉の子として生まれ、通称を安次郎、後に十松と |
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改めた。名は利惇、号は撃剣館といった。神道無念流の撃剣館三代目岡田 |
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十松利章の養子となって十松を襲名し、撃剣館の四代目を継承した。 |
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岡田家は水戸藩から禄米を賜っていたが、帯刀はこれを辞した。七年に |
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わたる奥羽越の遊歴を終えて江戸に戻った後の元治元年、尾張藩に仕えた。 |
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後に書院番として五十俵、足高三十三俵の八十三俵を食んだ。また明倫堂の |
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剣術教授もつとめた。山岡流鎌術の会得については、下野黒髪山に登って、 |
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門流の繁栄を祈願するうちに、神感あって妙技を悟ったとするが、旅先での |
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習得に外ならない。慶応三年五月九年、三十三歳で没し、名古屋の普蔵寺に |
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埋葬、護良院仁山義秀居士と号す。 |
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天然理心流 |
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天保十三年、白河藩士沖田勝次郎の三子として、江戸に生まれた。姓は藤原で、称は |
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初め宗治郎、後に総司といった。名は春政から房良と改めているのだが、通称の |
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宗治郎は惣次郎と認めた日野八坂神社の奉納額がある。総司には二人の姉がいた。 |
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長姉をミツ、次姉をキンといい、幼児期に両親を失った総司は、長姉ミツに育て |
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られた。白河藩士西村保佑が、安政六年十一月に認めた分限帳に、「本国武蔵三代目 |
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沖田林太郎」とあり、さらに祖父三四郎、安部正権公御代の文政二年に仕えたことが |
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明示されている。阿部正権が白河へ入封したのは文政六年であるから、沖田三四郎が |
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安部家に抱えられたのは武州忍藩時代ということになる。沖田家二代目が総司の実父 |
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勝次郎で、三代目の林太郎は長姉ミツの婿である。総司にとっての林太郎は義兄に |
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なるが、総司の過去帳に林太郎次男と記されていることを考えれば、沖田四代目を |
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継ぐ為に養子縁組をしていた事になる。この場合、実父の勝次郎は養祖父になる。 |
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沖田は天然理心流近藤周助の内弟子となり、近藤勇に従って上京、新選組一番隊長に |
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なった。近藤勇は沖田に天然理心流の五代目を継がせようしたことで、その腕前は |
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偲ばれる。突きが得意だった。有名な池田屋騒動の乱闘中、沖田は喀血して戦場を |
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離れた。参謀山南敬助切腹の介錯を行なったとされる。労咳で鳥羽伏見の戦い並びに |
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勝沼戦には参加せず、療養専一の生活を送ったが、慶応四年五月三十日、千駄ケ谷の |
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植木屋平五郎宅で没した。戒名を賢光院仁誉明道居士と号し、東京都港区元麻布の |
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専称寺に墓がある。 |
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■ 隊士名鑑 ■ |
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北辰一刀流 |
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嘉永七年六月十四日、奥田万吉の長男として南部盛岡で生まれた。剣術の師は、 |
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北辰一刀流千葉門下の四天王と謳われた麻布永坂の森要蔵と松五郎の四男村瀬 |
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武氏にうかがった。しかし、奥田の名を高らしめたのは、起倒流柔術によるもの |
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である。文久二年、江戸に出て、保科弾正の家臣沢田武司義明に起倒流を学んだ |
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明治十二年、米国の前大統領グラント将軍が来日の折、飛鳥山の渋沢栄一郎邸で |
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柔術大会が催され、市川大八と形を披露した。このとき、講武館の創始者嘉納 |
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治五郎も五代竜作と乱取りを行なった。奥田は警視庁柔術世話掛として、十一本 |
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の『柔術の形』を制定した中村半助ら七人の中の一人である。奥田は晩年を盛岡 |
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で過ごし、坂本龍馬を斬ったのは近藤勇だったと断言していた。昭和六年十一月 |
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二十九日に没し、盛岡市材木町の永祥寺に墓がある。 |
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直心影流 |
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天保十三年、岡山藩儒者奥村安心が父。幼称を寅吉といった。安政二年、岡山 |
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支藩の鴨方藩剣術師範をつとめる直心影流の阿部右源太へ入門した。全国武者 |
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修行に出て、伊予西条藩高橋筅次郎の二刀に接し、二刀の工夫をこらして、 |
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奥村二刀流を創始した。阿部右源太から「免許」を授けられたのは、文久三年 |
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で、剣術の外、香取平四郎に槍術を学び、石黒左衛門に起倒流柔術、また吉田 |
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民次郎には日置流弓術を学んだ。さらに砲術から馬術にも達し、明治四年岡山 |
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藩の演武場「武揚館」の一等教授となり、大参事にすすんだ。明治十七年 |
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十一月八日、東京の警視庁で行なわれた撃剣大会に出場して逸見宗助、上田 |
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馬之助と戦い名を高めた。明治三十六年正月十一日、六十二歳で没した。 |
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戒名を勇猛院了達信士と号し、岡山の半田山墓地に墓がある。 |
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直心影流 |
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文化七年正月七日、男谷新次郎信連の子として生まれ、初め新太郎と称し |
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後に誠一郎から精一郎と改め、名は信友。号は静斎、蘭斎などといった。 |
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文政十二年、二十歳の時、親類の男谷彦四郎思孝の養子となり、その次女 |
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を妻にした。直心影流団野真帆斎(源之進義高)の門で剣の道を極め、 |
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兵法を平山行蔵に学んだ。初め麻布狸穴に道場を開いたが、後に本所亀沢 |
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町の師匠の道場を継いだ。門人中の傑物として島田虎之助、勝麟太郎、 |
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そして本目縫次郎や榊原鍵吉がいる。安政二年二月五日講武所頭取になり |
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文久元年五月十六日、講武所師範役。同二年十一月十六日、従五位下下総 |
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守を叙任。同三年八月十八日西ノ丸御留守居格、次いで講武所奉行並と |
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なり、元治元年七月十七日、五十五歳で没した。 |
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天然理心流 |
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文政十年、医師蒲生隆見の子として生まれ、同心小野田喜間太の養子となり |
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安政五年四月八日、跡目相続。万延元年十一月十七日、神奈川県奉行所同心 |
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出役、文久元年四月八日神奈川奉行所武術師範になり、慶応二年五月四日、 |
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講武所剣術師範役並、小十人格になった。しかし、同年十一月十八日陸軍所 |
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へ講武所砲術部が引渡されて、残った剣槍両師範役は遊撃隊へ移され、剣術 |
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としては伊庭秀俊、三橋虎蔵、榊原鍵吉、桃井春蔵などが記録されている。 |
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しかし、小野田東市の進退をうかがい知ることができない。小仏関所番川村 |
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文助の息恵十郎の履歴に朱子学菊池俊助門人とあり、砲術が江川太郎左衛門 |
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の門人で、剣術は天然理心流小野田東市門人と認められている。 |
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直心影流 |
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文政六年正月三十日、小普請勝左衛門太郎惟寅の長男として、本所亀沢町に |
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生まれる。姓は物部、氏が勝、名は義邦で、通称が麟太郎、後に安房守を |
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叙し、維新後安房と改めた。海舟は号である。華族名簿並びに枢密院履歴書 |
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共に、生誕日を文政六年二月十一日としているが、太陽暦に改められた時の |
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換算を誤ったもので、そのまま訂正しなかったのである。 |
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勝は十三歳の頃、男谷精一郎について剣術を始めたが、天保九年七月二十七日 |
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父の隠居で家督を相続し、島田虎之助の塾に寄宿して、薪水の労をとって |
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修行した。毎日稽古がすむと王子権現まで駆けて行って夜稽古に励んだ。また |
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隣接の弘福寺で禅を修めて、剣禅一致。人間育成の道を歩む。 |
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幕末維新の偉人勝海舟は、明治三十二年一月二十一日に没し、大観院殿海舟日 |
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安大居士と号し、墓は東京都大田区洗足池畔にある。 |
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■ 佐幕人名鑑 ■ |
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神道無念流 |
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後の木戸孝允である。天保四年六月二十六日長州萩藩医和田昌景の後妻の子に |
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生まれ、八歳のとき藩士桂孝古の養子となった。弘化三年から柳生新陰流内藤 |
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作兵衛の道場に通う。嘉永五年、萩にきて指南した神道無念流斎藤新太郎に |
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従って自費で上府、練兵館に入り塾頭に進んで剣名が高まった。安政五年、 |
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桃井春蔵の士学館で坂本龍馬と互角の試合をしたというのは作り話。また岩国 |
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を訪ねて宇野金太郎と立合ったときは、さすがに歯が立たなかったという話も |
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ある。桂小五郎は身長一七五センチの偉丈夫で長州藩のホープだった。吉田 |
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松陰の兵学門下でかつ親友でもあった、江川太郎左衛門からも西洋兵術を習った |
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長州の先頭に立って尊皇攘夷運動を進めたが、文久三年堺町門の変で挫折、 |
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翌元治元年一月再上京して京都留守居役となり、正藩従合・朝議回復を図った。 |
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六月の池田屋の変では、危うく難をかわした。七月禁門の変のあと京都を脱して |
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但馬に潜伏、慶応元年閏五月帰国するまで、その行方は誰も知らなかった。 |
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慶応二年一月には、京都薩摩屋敷で西郷隆盛らと薩長同盟を締結。明治元年一月 |
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維新政府に召出されてより明治十年五月二十六日、西南戦争の最中に四十五歳で |
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病没するまで、日本近代化の推進役を果たした。 |
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木戸は生涯刀を抜かなかったと云われるが、対馬藩士の手紙では、禁門の変の |
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最中「仙洞御所の先の所にて越人か何か相分らず候えども白刃をもって向い候 |
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につき相応じ候ところ大混雑」と白刃を振るって乱闘した様子を報じている。 |
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■ 幕末人名鑑 ■ |
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神陰流 |
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筑後・久留米城下庄島の出身。諱は重秀。もとは加藤姓。十一歳で神陰流の加藤田 |
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武陳の門弟となり、十六歳のとき、武陳の三女ふじを娶って婿養子となる。 |
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文政十二年、二十二歳のとき、門弟二人を伴なって武者修行の旅に出た。半年ほど |
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で十九カ国を巡り、じつに九百九十八人と試合をした。天保八年、養父の隠居に |
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より家督を相続。翌年から再び武者修行に出る。江戸で田宮流の窪田助太郎や直心 |
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影流の男谷精一郎など著名な剣客と試合をした。人格円満で、男谷や神道無念流の |
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斎藤弥九郎らと親しく交わった。平八郎はまた、指導者、道場経営者としても優れ |
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ており、家督相続してから没した明治八年までの四十年近くの間には門弟は三千五 |
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百人を超えたという。一方、熊本藩の星野平左衛門から揚心流薙刀の免状も伝授さ |
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れている。明治八年一月十五日、六十八歳で没した。 |
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