薩摩藩士 |
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文政8年11月6日、鹿児島城下高麗町に樺山善之進の次男として生 |
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まれ、大山四郎助の養子となる。家禄百三十六石。 |
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通称熊次郎、円正、正阿弥、角右衛門、格之助。 |
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天保5年、御数寄屋御茶道にて茶坊主として島津家に仕えた。 |
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剣は示現流薬丸半左衛門に学び、藩中第一の使い手といわれていた。 |
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西郷隆盛、大久保利通らのリーダー格であり、精忠組の中核人物で |
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あったという。 |
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文久2年、島津久光に従って上洛。寺田屋事件では久光の命で討手 |
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に加わり、急進派の同志を上意討ちにした。 |
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翌3年の薩英戦争では、軍賦役として参戦。 |
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慶応2年、大宰府の三条実美ら五卿を警固し、大久保と共に薩摩藩 |
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の代表として長州に赴き薩長同盟を締結する。 |
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慶応4年、鳥羽、伏見の戦い、次いで明治元年には奥羽鎮撫総督府 |
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参謀として、薩長兵三百五十余名を率いて奥羽各地を転戦し、のち |
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功により賞典禄八百石を賜った。 |
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明治4年、鹿児島県大参事、同6年、初代鹿児島県令となる。 |
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明治8年の地方官会議では「民会未だ開くべからず」と論じ、金禄 |
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公債の件では、鹿児島士族の特殊性を説き、特別措置を得た。 |
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常に鹿児島士族の便をはかり、明治10年の西南の役に際しては、官金 |
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十五万円を独断で西郷軍の軍資金に提供したため、乱平定後、その |
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罪を問われ、9月30日、長崎で斬罪に処せられた。 |
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享年53歳。 |
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墓所は、鹿児島市上竜尾町の浄光明寺。 |
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■ 御 家 紋 ■ |
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■ 剣 客 剣 豪 ■ |
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